旅とは生
   高1 ばにら(tokunaga)  2025年2月2日

私たちが旅に出るとき、独特の感情を覚える。旅とは惰性的な日常からの解放であり、未知の可能性に富み、不安の中の落ち着きのない喜びで胸をざわつかせる。この予感のような、居ても立ってもいられない欲動こそが好奇心だ。好奇心こそが、私たちの知的活動における情熱の源泉である。それはあらゆる苦悩や喜びを生み出し、極めて壮大な物事を成す。人類は情熱を燃やすものを持ってして、その文化文明を開花させてきた。その劇薬は時には毒にもなりけれども、あらゆる社会や学問の祖であるのだ。波の少ない、平坦な日常は安定的な側面を有するが、共に凡庸な人間を産む。この凡庸さとは鈍感と創造性の欠落である。ゆえに、この原動力の欠如は人生の彩りを忘却させ、無味無臭の日々を疑うことすら困難にするのだ。だからこそ、旅に出る時のようにあやしげな好奇を胸のうちに宿すべきだ。それによって、様々な色相の心惹かれる生を体験することが可能になるからである。それを実現するためには二つの方法が見出せる。



第一に、過度に節制された生活を避ける、という方法が挙げられる。制限の多すぎる日常は、心身を圧迫するだけでなく、精神を重苦しく抑圧してしまう。ここで言う制限とは、湧き上がってくる思考や願望を積極的に封じ込めることだ。その苦行自体が自身の願望の中枢であるならば問題はない。だが、このような生活を自主的にするのは多くの場合、漠然とした美徳観念によるものであるように感じる。実際に世界中の文明の多くには禁欲を美徳とする傾向が見られるだろう。それらは概ね哲学的、あるいは宗教的意義による。キリスト教を始めとする一神教では悪徳、仏教では煩悩と呼ばれる欲望を抑えなければ、死後にその罰を受ける・・・。社会に深く根付いたこの世界観は、自身が思っている以上に私たちの思想に影響しているのだ。例えば、カトリック教会における「大罪」とは傲慢、憤怒、嫉妬、怠惰、強欲、暴食、色欲とされる。確かに、これらの欲を多くの人間が際限なく満たそうとしたら、社会は立ち行かなくなってしまうだろう。ゆえに、実際にこの基本的な規律は過去の文明の秩序をある程度保ってきたと言える。しかし、今まで否定されていたこの強い衝動こそ、生の欲動なのだ。一見悪徳に見えても、そのお陰で「美徳」もまた同時に存在しうるのだ。この両者は決して対比し合う関係ではない。お互いの成立に不可欠であるだけでなく、時には同じ目的への延長線上にある。虚栄心が様々な人間をまとめ、金銭欲が多くの雇用を生み出すかもしれない。あるいは承認欲求がスターを燦然と輝かせ、激怒が偉大な革新を成すに至ることもあるだろう。要するに、決して「欲」自体を悪とみなすのではなく、それによって自ら引き起こす行動の選択が重要なのだ。



第二に、無条件で信じられる指針を見つける、という方法も考えられる。そう聞くと、現代人は訝しんでしまうかもしれない。現代社会においては、一般的に科学の正当性が宗教を凌駕すると認識されている。しかし、そのような意識の中で生きる私たちにも、頑なに信じ、求めるものがあるのだ。それはもはや信仰と言っても良いほど私たちに影響する。すなわちそれは社会とのつながり、ひいては自分自身の定義づけである。自己同一性を確立する為に、集団内から役割をもらう。そこで始めて、曖昧な「自分」という存在を、正確に辞書に記すことが可能になるのだ。反対に虚無感とはその認識が薄れている状態だと言えるだろう。それは社会的な統計も暗示している。例を出すと、各国の自殺率と失業率、そして戦争の相関関係が挙げられる。失業率が上がれば自殺率が増えるのは理解に容易い。しかし、戦争が起こると自殺率が下がるのは予想外ではなかろうか。だが、両者とも同じ理屈でこの関係を形作っている。失業すると、社会とのつながりが消え、自分を見失う。未来に希望が見出せず、漠然とした絶望感や虚無感が襲う。逆に戦争が起きると、国民一人一人に役割が与えられ、またイデオロギーも増強される。すると、集団の一員としての「自分」という、はっきりとした像が見えてくるのだ。また、家庭を持つときも同様に、家族という集団の中での位置付けと責任が自分の存在を確固たるものに意識させる。実際、家庭を持つ人間の自殺率もそうでない人より低いことが見られている。自分の定義付けのための社会との繋がり、それが「人間は社会的動物である」という言葉の本質であろう。さて、その集団においての立ち位置を貰う、というのはあくまで自己認識の手段であるとしよう。すると、その目的達成の為に、他の手段も推察できそうだ。社会とは確かに一番本能に兆する方法だが、それのみでは前述した「強い衝動」というものは抑圧されてしまう。だからこそ、固有の「生きる上での指針」持つのは有効な手段ではないだろうか。自らの自由意志で世界を切り開く上で、この「指針」を無条件に信ずるというのは「自己」を感じる最も強力な方法だと思える。結局のところ、それこそが自身の「生」を肯定する一番の信仰ではなかろうか。



勿論、社会的規範を守るのは決して否定するべきことではない。逆に、何かを一方的に信じ続けるのは危うさを感じる。現に、私自身も今までイデオロギーの押し付けの危険性や、社会の存続の重要性について再三書いてきた。しかし、そのような「正当」とされる合理性とは裏腹に、私たちは非常に非合理的な存在だ。作文で偉そうに惰性を糾弾した後、練習もせずに部屋で惰眠を貪る・・・なんて行動は日常茶飯事である。その結果、虚無感と自己否定の感情に襲われ、ますます自分を見失う。自己とは?生きる意味とは?答えの無い問いに、ますます己の空虚さを痛感する、という負のループが完成する。おそらく、本当の意味で満たされながら短くも長い人生を生きる方法は「生」を毎秒間痛烈に味わうことだと思う。集団から爪弾きを恐れず、己の信念を子供のような無邪気さで貫く・・・。そんな人間こそ、ニーチェの述べた「超人」であろう。だからこそ、湧き上がる好奇心と情念を満たすというのは、己の「生」を鏡写しにする最適解だと私は主張する。