学びの姿とは(清書)
   高2 かたおか(kataoka)  2025年2月4日

 学問を教養のように学べないことが問題だ。本来、学問は教養のように学べるべきものである。教養とは、経験によって培われる知的素養や心の豊かさを示している。教養を得るうえで大切なのは、常日頃からそれを意識することだと思う。このことは、学問にも同じことが言える。学問は、生活を豊かに営むための思考力や判断力を養う一手段でしかないのである。

 一つ目の原因としては、受験に向けての競争意識を幼い頃から持っているからだ。受験の低年齢化は年々顕著に現れるようになったと思う。私の周りでも、小学校受験とまではいかないが、小学生の頃から塾に通い、私立中学へ入学した同級生は多くいる。地域によってその特性は少し異なるようだが、最も受験者数の多い東京都ではどうだろうか。令和四年度の私立中学進学割合は、二十五パーセントである。これは全国で最も高い数値だ。その次に高知県、奈良県、と続いていくが、いずれも十パーセント以上である。おそらく子どもたちの心が成長するより前に受験競走は始まっていて、日本の社会で生きていくには必要なことだと考える親が増えているのだと思う。このような社会は問題である。子どもたちが学問の本来の目的ではなく、学問を受験のためだけに学び、日常生活に活かしづらい現状を、作り出してしまっているからだ。少子化が進み子どもの総数は減っているが、受験をする子どもの割合は増加し続けている。この現状を打破するべく、学問を日々の生活に重ね合わせていくべきなのである。

 二つ目の原因は、学問によって身に付く思考力が計りづらいものだからだ。学問によって身に付く思考力とは、主に数学的な過程によって身に付くものと、文章を読むために必要なものがある。数学的な過程によって身に付く思考力は、計算が早いとか公式をたくさん覚えているとか、そういうような暗記の技術は重要ではない。むしろ、それらを使いこなした上でどのように問題を解くのか、という問題解決に向けての論理的な思考力だと思う。また、文章を読むために必要なものとは、いわば読解力だ。本を読むとき、人と会話をするとき、音楽を聴くとき、美しい風景を見たとき、私は自分の中に読解力を感じる。例えば、「流れる雲の影を見た」という文章があったとして、ここに長い時の流れを感じる。初対面の人から、「好きなアーティストは誰?」と聞かれると、この人と関係を構築する未来の自分が見える。これらの思考力は、学問以外のことでも会得できるであろう。しかし、幼い時から私たちの最も身近にある思考を得る方法が学問であり、幅広く世界の見渡し方を学べる唯一の方法だと考える。しかし、これらの思考力は目で見ることができないし、入試や定期試験でこの能力を測ることは困難である。先ほどの文章や会話を経て、いちいち何をどこまで感じたか、などその人自体を評価することは難しい。だが、最近では総合型選抜や学校型推薦など、大学受験においては学力ではなく、一個人として人物を評価する入試方法が広く取り入れられて始めている。そのため、学問によって培われる思考力は評価しづらいものではあるが、教養のように、当たり前に学べる環境を作っていく必要があるのだ。

 確かに、勉強ができるということはその人自身の信頼に値する。しかし、言葉は溜め込むものではなく、何度も使用して正しくわかりやすい使い方を身につけていくものだ。そのため、学問自体を極めることよりも、日常生活に学びを落とし込む力が必要なのだ。