未知の道
   高1 ばにら(tokunaga)  2025年2月3日

旅行へ出ようと思う時、あなたはどのようにして計画を立てるだろうか。ガイドブックを読んでみたり、現地へ行ったことのある人の体験談を聞いてみたりして、理想的な旅路を導き出すか。あるいはあまり情報を集めずに、実地で直接いろんな発見したい、と考えるかもしれない。さて、この情報化社会において、最も簡単に実行できるのは前者の方だ。昔は、遠い土地の実情なんて風の噂でしか分からなかった。しかし、世界中がインターネットを介してつながっている中、全く情報を取り込まない方が難しい。これは旅行に限った話ではない。溢れるほどの「人生の攻略法」なる情報が日々私たちを刺激している。かつて親や師などの近しい先人から教わる程度だった「生き方」が、今や不特定多数の様々な社会階級の人間から取り込めるのだ。しかし、それはある意味で自分で歩む実感を喪失させる危険性も孕んでいる。故に、未知の可能性に富んだ未来を手探りで探索することも、生きる上で重要な学びになるのではないかと考えられる。そのためには、二つの方法が見出せる。



第一に挙げられるのは、自身が目指す目標の真実性を反芻する方法だ。本当にそれは自分の望みと合致しているのか?または自分の歩みたい道筋そのものを正当化するためだけではないか?これらの問いを、改めて自身に課す必要がある。私たちは、身の回りを取り巻く情報に非常に影響されやすい。それは親や友人の言葉かもしれないし、本やインターネット上の文章かもしれない。これらの主張も様々で、なるべく誠実で安定的な道筋を示すものから、とにかく波瀾万丈な冒険をと唱えるものがあるだろう。事実、私自身も周囲の人間や本で読んだ内容、偶然ネットで目に止まった掲示の一つ一つに感心し、あるいは抵抗しながら自らの意思を二転三転させる。こだわりの強い個性的な人を見て、ああいうのも良いなと思ったりする。だが、社会性を培うためのアドバイスみたいなものを見てみると、他者との共存こそが一番自然な生き様ではないかと考察することもあるのだ。これほど影響されやすい私たちが掲げる「目標」もまた、危ういものではなかろうか。いつか見た誰かの生き方を真似したいがために、ありもしない目標を掲げてしまうこともあるだろう。あるいは、大きな流れになんとなく身を任せただけかもしれない。だからこそ、今一度自分自身の望みを模索し言語化するべきだ。偉大なことを成す人物が時に波瀾万丈な人生を送るのは、難しい道を選んだからではない。望みを叶えるために、そうならざるを得ない決断を自ら下したからである。



第二の方法として、「こうであるべき」姿を社会的に強要しないことも重要だろう。ある程度の普遍性を持った「理想の形」は確かに存在する気がする。それは学業や仕事で成功したり、家庭を持ったり、あるいは沢山の友人を持つことかもしれない。しかし、理想は理想であり、またそれが当てはまるかも個人間の差異がある。理想を一般化してしまうのは、その形からあぶれた人間を失望させてしまうばかりか、自身の意思と食い違う選択をさせてしまう恐れがあるのだ。これらを回避するためにも、一般的なものとは離れた姿も受容するだけの社会的安心感を与えるべきかもしれない。例えば、二十一世紀に入ってから欧米諸国で次々に同性婚が認められた。それは、今まで何世紀にも渡って迫害を受けてきた人々に、法的な認証という彼らの正当性を支えるものだった。同性婚が認められた国において、セクシャリティに関する抗争は無くなったわけではない。だが、それによって彼らが自動的に悪い立場になることは、国の認証下において無くなったわけだ。これは一例である。だが、その時代の一般的な姿とは少々食い違っていても、自身の望みを成すことによって社会的立場は揺るがないことを示すことは非常に有用であると考えられる。それは私たちの目の前にある世界を広げるばかりか、より生身の実感の伴う選択が可能になるのではなかろうか。



確かに、すでに何人もの通ってきた道は歩きやすい。整備と舗装が繰り返され、共にそこを歩む人も多くいるだろう。その先が自分自身が望むものであれば、実に結構だ。先人たちが歩んだその道を胸を張って歩み続ければ良い。しかし、道の先の景色よりも、はるか別の方角にあるかもしれない風景に心惹かれるならば、一度立ち止まってしまっても良いのではないか。そのあるかもしれない光景に続く道が獣道だとしても、手綱さえあればいつでも引き返せる。それは、舗装された歩道を自信なくよろよろと彷徨うよりも、よほど健康的ではないか。最終的に旅の真価を決めるのは、歩んできた道筋の丈夫さではない。その先で見て、聞いて、感じたものである。見てみたい光景を決めるより先に、経路にこだわるのは本末転倒なのである。故に、自身で形作る未来の可能性の大切さについて、より深く思慮するべきだと私は主張する。