人間はどこかで自然と
   小6 みお(aemio)  2025年2月4日

  筆者の家が面している路地はほそうされていず、道端に草が生えていて子供たちが草の葉を引っ張っているところを筆者はよく見かける。彼らは地球のかけらを発見しているのではないだろうか。しかし現在、下水道工事で車の振動によって下水道がこわれないようにしっかりとほそうされたしまった。もともと路地にいた雑草たちは工事以来、姿を消してしまい、路地はもう地球のカケラではなくなってしまった。ハイキングで緑が気持ちいと喜ぶ人も自分の庭の雑草は血眼で引き抜いてしまう。このように町中の雑草に対する人間の態度は時と場合によって変化するものである。



 私は5年生のとき家のベランダでミニトマトを育てていた。ある日、トマトに水をやろうとベランダに出ると育てた覚えのない見知らぬ花、いわゆる雑草がトマトの隣に生えていた。雑草は結局抜かなかった。その理由は、大変だからと思ってやめたのか、雑草の大事さを知っての上でぬかなかったのか、それは今でもわからずにいる。しかし、今にしてみると、抜かず、そのままにしておいたおかげでその雑草が「ハルジオン」だとわかった。また雑草の生命力の強さがわかり、人工的ではなく自然のかみ合いで生まれたものを人間の勝手で抜いてしまうのは良くないのではないか、と思うことができるようになった。だからあのとき、実際どんな理由があったのかはわからないけれど、抜かなくてよかったと思った。



 私の母が子供の頃住んでいた家の目の前には川が流れたいたそうだ。近所の子供達は年に数回行われる川ざらいの日に川に入ってフナを取り家に持ち帰って焼いて食べたそうだ。子供達は何匹取れるかを競走しあっていて、その頃子供と自然の関係は近かった。しかし、そこは道が狭く車が落ちたら危険、子供が足を滑らせて落ちてしまったら大変、などという理由で川にふたがされてしまった。だから今では昔のように気軽にはフナを取ることもできず、またゴミ拾いなども一番最後にゴミが流れてくるような川の端でしかしなくなってしまったそうだ。私は、母から話を聞いて、川で遊んでいた人なら今の子供達にも自然と触れ合える遊び場を作るべきだと考えるかもしれないけれど、川で遊ぶ機会がない子供達はそれが当たり前だと思って大人になっても何か機会やきっかけがない限り前者のような考え方はしないだろう。だから自然を大切だとわかるためには話を聞くだけでなく実際に触れ合わないといけないと私は思う。



 自然とは人間にとって私たちに生命の大事さ、強さを教えてくれるものである。自然がなくなってしまったら人間は生きられない。自然は人間も含めて動物を助けてくれているものである。たとえ都会で育ったとしても全く自然と関わりがないわけではない。人間はみんなどこかで自然とつながっている。たとえばコンクリートとコンクリートの間の小さな隙間に生えているたんぽぽや、道端にいつの間にか生えているエノコログサなど、全て自然が育んだものである。それらを通りがかりに目をむけてみたり調べてみたりするのも自然とのつながりの一歩であると思う。「やはり野におけ蓮華草」ということわざがあるように、自然は生えるべき場所に生えてくる。また人間と自然は共存していかなければならない関係である。だから私はこれから、自分は自然の一部だと思って生きていき、自然ともっと触れ合ってみようと思う。