心赴く
高1 わのき(wanoki)
2025年2月4日
既成の安全なやり方ではなく、危険もあるが成長もある自分らしいやり方で物事に取り組むべきだ。
一つ目の方法としては、失敗を恐れないことである。あの天才学者のアインシュタインの逸話に、このような話がある。アインシュタインが生徒たちの前で、黒板に簡単な計算を書き始めた。常識も常識といったような九の段の掛け算の計算式で、アインシュタインは順調に全て解いていった。だが最後の十問目の問題だけ、答えを間違えてしまった。それを見た瞬間、生徒たちは笑い始め、彼を馬鹿にしたそうだ。教室が静まるのを待ち、笑った生徒たちに対しアインシュタインは、
「私は十個の問題のうち九個を解いた。しかしその事を誰も賞賛しない。それなのに間違えた1問をみんなでからかい笑う。これが何を意味するのか。これはある人が成功していても気づかないが、小さな間違いには気づきそれをみんなで叩く。社会そのものだ。間違いはプロセスの一つである。決して間違いを犯さない唯一の人、それは『何もしない人』だ。」
と言い放った。アインシュタインは、天才と名高く評されている者だが、人間であることには間違いなく、人間というのは間違いを犯すものである。彼もまた天才であるがために、たくさんの間違いを犯してきただろう。今私たちが知っている彼の功績は、彼の人生の氷山の一角ほどもないだろう。強いて言うなれば氷山の頂の一点だけが水面から顔を出しているような状態だろう。間違いとは努力をしたという証拠そのもので、決して恥ずかしいことではない。失敗を恐れて、アインシュタインの言う「何もしない人」になってしまえば、それこそ恥ずべきことである。だから、失敗する事を恐れず、突き進むべきだ。
二つ目の方法として、自分らしいやり方というものを評価することだ。私は、ハイスクールに入って以来、全期間において選択授業の一つに美術を取っている。彫刻のような立体の美術ではないが、平面上に絵を描くような美術の授業を取っている。八年生、つまり中学二年生の頃からずっと美術の先生は変わっていない。彼女はもう長いこと私の通っている学校で美術を教えているようで、生徒の扱いが手慣れている。かの先生はカナダの大手美大の卒業生であり、本物の画家である。ただ、規定に縛られず自由に創作をすることを勧める生粋のアーティストだ。その分癖も強く、飼っている大型犬をスタジオに連れてくることが多々ある。ただ課題もかなり自由度が高く、技術を確かに学べていて、実用できているならば、自分の心が赴くままに描いて良いというスタンスである。私は、よく自分の作品が描画スタイルに合っていないのではないか、他の人の作品より劣っているのではないか、と不安を感じてしまう。だが、その自信のない作品をこれ以上どう改変できるか分からなくなるため、先生のところへ持っていき、確認してもらう。そうすると、自分が思いもよらなかった部分を褒めてくれたり、的確なアドバイスをしてくれて、こちらとしては大助かりである。それが先生の仕事だと言えばそれで終わりかもしれないが、私はあの先生を尊敬している。必ず良いところを見つけて言ってくれる上に、更に良い作品にするためのアドバイスもくれるのだ。人から褒められるのはやはり嬉しいもので、私は前に作品を褒めてもらえた時、これからも頑張ろうと思えて、モチベーションが上がった。難しくもあり楽しくもある美術はやはり奥深いものである。このような経験談から、社会で自分らしいやり方というのをもっと評価していくべきである。
確かに、既存の安心安全な道を通っていくのも一つの手である。だが、そこに面白みはあるだろうか。成長が一定で止まる平凡な人生になるのではなかろうか。現に多くの現代人がそのような生活を送っていると私は思う。齢十六の若輩者ではあれど、私は個人的に、多少道草を食うくらいの方がちょうど良い人生の生き方だと思っている。間違いはその人そのものを表すものではなく、その人の努力の積み重ねの一層を表すものである。私がよく見るボブ・ロスという画家が
「私たちは間違えることはない。ただ小さな楽しい事故を起こすんだ。」
とよく言っていた。私はこのように間違えても前向きに考え、今後も自分らしさを模索しながら生きていきたいと思う。