自分の意見
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 明治時代以降社会という言葉が通用するようになってから、私達は本来欧米で作られたこの言葉を使ってわが国の現状を説明するようになり、その概念が本来もっていた意味とわが国の現状との間の乖離が無視される傾向が出てきたのである。欧米の意味での個人が生まれていないのに社会があるかのような幻想が生まれたのである。日本の個人は、世間向きの顔や発言と自分の内面の思いを区別してふるまう、そのような関係の中で個人の外面と内面の双方が形成されているのである。日本人に個人主義がかけており、世間に流されやすい面があることに問題がある。

 第一に日本の農耕民族の歴史が、日本人の国民性を作ったということが考えられる。農業などを昔は皆で協力し合って土地を分け与えていたりしていた。すなわち、周りと協力体制が築けなかった場合、その土地で農家として食いつないでいくのは不可能に近かったのではないだろうか。私の小学生時代の友達は皆、どこかずれている子が多かった。そして、それが理由で避けられているのも目にしていた。確かに曲者が多く、全員が一か所に集まるとよく火花を散らしながらも仲良くしていたと感じる。しかし、クラスの中でその疑問が大きな黒い渦となり同調圧力で飲み込まれてしまったのだろう。そして同調圧力の怖い所は感情や好みまで変わってしまう事だ。つまり、私は他のクラスメイト経由で同調圧力に飲まれ曲者の友達たちを嫌いになってしまった。だが、しばらく距離をちょっと離してみると皆の会話が楽しそうに感じたが、一度飲まれてしまうとあの中に戻ることは自分も仲間になることだ。と常に感じていたが、私はやはり戻りたいと思い自分の気もち、個人の気持ちを大事にすることができた。やはり、同調圧力で個人を出せなくなることが問題だ。

 第二の原因として、日本の社会が島国であるために異質の文化を持った人との接触が少ないということが挙げられる。ダーウィンが進化論の着想を得たガラパゴス諸島は、小さな島々が急な潮の流れにより他の島々から隔離された状態であったために、島ごとに特殊な進化を遂げた生物が生息していた。日本もその影響を得ているのだろう。今の日本はよく他国から賞賛を得ているそれは、江戸時代に入るまで周りと隔離されていたことにより独自の文化を発展させてきたという点が大きいだろう。もし他国との繋がりがもっと強かった過去があれば、効率や回転率重視で魚やニワトリなどの衛生面を多少厳かにしてしまい、生魚などからの感染症で刺身や寿司という文化は無くなっていただろう。また、ネットをよく見ている人にはなじみがあるとは思うが、近頃アフリカのとある民族の方々にその民族特有の誕生日お祝いをしてもらうサービスが人気を得ている。これも周りの国から影響を受けずに隔離されていた文化が大きく影響を受けているだろう。

 確かに日本人の世間志向が安定した社会を築いてきた面はある。しかし、「根本的な才能とは自分に何ができると信じることだ。」というように自分を信じて、周りの言葉に流されないことではないだろうか。やはり他人に流されやすい面があることに問題がある。