今日では、道徳的共同体を
   中3 あおにま(aonima)  2025年3月1日

 今日では、道徳的共同体をつぶしてきた法的社会がふつうの社会となり、国家となっている。しかし、今日、共同体が完全につぶされたわけではない。共同体の本質は感覚であるから、理屈、理論すなわち知よりも情が尊ばれる。現代人のわれわれの大半は、おそらくは、公の言い分、すなわち父といえども犯罪者は法の裁きを受けるべきであり、証言に立つ子の立場を正しいとするであろう。それは人間社会における法優先の立場である。たとえば、今日、老父の罪を見逃してもらうために、贈賄すれば、どうなるか。子は罪を犯すことになる。しかし、老父を捕えた検事や警察の側が、その父を老人であるがゆえに、その罪を公にしないとすると、一転して、温情ある処置として美談となる。共同体的感覚による行為である贈賄と美談とは紙一重の差なのである。この道徳的指導者は、法のように強制するのではなくて、しぜんと見習わせて、人々を感化することになる。この道徳的指導者は、法のように強制するのではなくて、しぜんと見習わせて、人々を感化することになる。これが道徳政治というものの姿である。後者の法的政治を主張したのが、孔子よりずっと後に出てきた法家であり、その方式に基づく大政治家が、秦王朝を建てた始皇帝である。だから僕は、共同体的な生き方をしたい。

 そのためには第一に、法律よりも人間を見ることだ。人間は法律を生み出したが必ずしも守り切ることは難しい。法律はあくまでも一つの基準となるものである。学生からしたら、一番身近な法律は校則であるだろう。例えば、自分たちが体育祭の準備をしている最中に最終下校時間のチャイムがなったとしよう。この時担当の先生が発言する意見は大きく分けて二つに分かれると思う。一つ目は校則にしたがって下校の準備をするようにと指示をする先生と反対に、あと15分だけ残って作業を続けて良いなどと、温情な先生に分かれると思う。前者の先生の意見を否定するわけではないが、人間によって校則の見方が変わってくると思う。先ほど述べたように、校則はあくまでも一つの基準なので、自分たちである範囲または他人に迷惑がかからない範囲までは、アレンジしても良いと思う。

 また第二に、法律を執行する人の人間性も必要だ。伝記によると、大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)は、子供を争う二人の母親に、「子供を引っ張って自分の元に引き寄せた方が本当の母である」と言い、痛がる子供の声に思わず手を放した母を本当の母と認定した。ただ法律やルールを適用するのではなく、人としての思いやりや公正さが大切になってくると思う。法律の言うとおりにしてしまうと自由に身動きができなくなってしまう可能性もある。そのためには状況に応じた柔軟な判断が求められてくるだろう。

 確かに、法律に基づかない運営は不明朗なものになることが多い。しかし、「家の批評ができるのは、建築家ではなくそこに住む人である」という名言があるように、私たちはもっと共同体的な考え方を再評価すべきだ。