私のなかの
中2 あおさみ(aosami)
2025年3月1日
児童のあそびはきわめて多彩なものになる。同じこころの世界で遊んだことは、のちの対人関係の基盤をつくる力になる。ゲームなどのあそび活動を通して社会的ルールを守り、協力することなど倫理の基本的訓練が行われる。さらに想像性が発揮されると創造的活動につながる。子供の多くが詩人的素質を示すのも、感受性と想像力が発達するからだ。大人はなるべくこの芽をつまず、むしろ子どもから学ぶように心したいものだ。
子供時代の遊びから得るものは多い。私は小学1、2年生を種子島で過ごした。姉の終業を待ち、一緒に家に帰ると、水筒を揺らしながら玄関から再び飛び出す。夏は部屋から夜ごはんの匂いが漂ってくるまで、冬はからだが冷え切りお風呂のお湯が恋しくなるまでひたすら遊んだ。同じ団地の友達と3人姉妹の私たちでサッカーをよくしたものだ。小学生の私と姉と友達と比べて、妹はまだ小さかった。そのためみんなで遊べるようにルールを工夫した。妹はいまでもあの時のサッカーは楽しかったという。そしてその時にブロックできた球のことをまだ誇りに思っているようだった。子供の時に遊ぶことで、心身ともに良さがあると思う。自己肯定や社会性、創造性、コミュニケーション能力など様々なこと得ることができる。また、遊びの世界は限りなく存在する。遊びは自由であると同時に、自由だからこそ、それに伴う責任や処理、改善が必要になってくると思う。遊びは、心の中で文字を使って書くものではない。色とりどりの絵の具で描かれた絵なのだ。そしてその絵が十人十色でいいと気づけたことも、遊びのおかげかもしれない。
しかし、勉強しなければ身につかないものもある。数学や理科などのに出てくる公式、語学や社会などの暗記などは、ローマは一日にして成らずという言葉があるように、習得するためには努力が必要である。机と向かい合う時間が常に楽しいわけではない。だが、そのような時を乗り越えてこそ結果が出る。私も今、数学や語学検定に向けて勉強をしている。得体の知れない問題や公式、単語などと顔を合わせてしまったら、後戻りできない。目があったからには挨拶をし、会話を通して相手のことを理解しようと努力をすることが礼儀である。少しずつ縄を解いていく中で、忍耐力や根性、理解力などが養われていくと感じる。昔話の「うさぎとかめ」では、かめはゆっくりと止まることなく歩いていて先にゴールし、うさぎは走ったにもかかわらず途中で寝て負けてしまった。毎日コツコツと継続をすることの大切さ、そしてその努力は無駄ではないことにつながる。勉強は、成果が重要なのではない。そこに辿り着くまでの過程の中で、どれだけ自分が壁を乗り越えてきたのか。効率よく勉強する方法を模索し、達成感を得る。勉強の過程の中には、人生のヒントが詰まっている。
確かに、子供時代には遊ぶことも勉強することも大切だ。だが、「子供は大人を小さくしたものではなく、それ独自の価値を持っている」という言葉があるように、一番大切なのは、自分の軸を持ち、そこに付け加えながら自分を構成していくことだと思う。子供には、子供のときめきがあり、発見がある。様々なことを経験し、視野を広げることが大切だ。歳を重ねることへの不安が芽生える年になっても、小さい頃の自分が微笑みを浮かべて立っている。そしてくるっと踵を返し、夢の中へとかけていくのであった。