チャンス
高1 かずま(auyoto)
2025年3月1日
物との出会いの経験が、子供達は著しく貧困である。商品としての物が氾濫する一方で、自然と連なる物の世界は、ますます子供の世界から消滅しつつある・その端的な表れが道具の使用の経験の未熟さに挙げられる。ものと出会いものを道具によって操作する体験や文化が欠落しているのである。言葉という道具に応用の事情がある。「文字離れ」「活字離れ」は、今や決定的といってよいだろう。小学校の低学年では、読書は召還化しているが、高校生になると活字離れが進行し、中学生や高校生になると、六割から七割の生徒が月に一冊も本を読んでいない。私は、このようなものに接する機会を作るべきだと思う。
そのための方法として第一に、物の価値をしっかりと子供に伝えていくことだ。最近、子供に対していろいろな経験をさせるということに強い関心があるように思える。身近なところでは、子供に家の手伝いをさせて、家事や、場合によっては育児の大変さを身にしみて感じさせる。逆に、学校の野外学習などで、火おこしや自然と触れ合う機会を設けている。それで確かに子供たちから見た物の価値が大きくなっていくのは間違いないと思う。しかし、ただ単に強要するように子供たちになにかしらの物の価値を押し付けるようにはなってならない。子供たちは、自分たちに何かしらの物が強要されることへの拒否感が大きく、また、強要されていることに気づく能力もとても強い。子供たちにいくら楽しいことだとしても、それを強要してしまっても、強要されているその一点で、子供たちの楽しむチャンスをかえって奪ってしまうことになりかねない。それは、おそらく大人としても望ましいものではないだろう。子供たちに物の価値、物の楽しさを教えるためにはどうすればいいか。それは、物の楽しさを伝えることだ。強要するのではなく、伝承していくべきなのだと思う。子供は、わざわざ自分から物の楽しさを味わうのを億劫に感じてしまうかもしれない。しかし、物語なら別だろう。例えば料理だったら、材料を繊維に沿ってサクッと切る感触、鍋に放り込んだ材料を混ぜるときの箸の重さ、それらを終えた時の、解放感と達成感が入り混じった一時のいいがたい喜び。これらを順序だて、時に面白く、時に大げさに語れば、きっと子供もそれにこたえてくれるだろう。子供は決して世の中に無関心になったわけではない。目が向かなくなっただけで、その目をこっちに来るよう仕向ければ、大人が望むようになる可能性もあるだろう。
そのための方法として第二に、物にかかわれるチャンスをきちんと作ることだ。子供というのは、強制されたところでなびきづらい。しかし、もし仮に子供が主体的に物に関わることに興味を得たら、必ずそれを後ろから後押しし、その先の道を整備する社会が必要だ。物の価値というのは、実践してみない限り完全には理解しがたい。しかし、物の価値は、対象にもよるが、なかなか実践してみることが困難な例がある。それが顕著なのは火おこしや、木工など、専用の場所や道具、材料が必要な場合だ。なかなか現代の社会で、火を起こして問題視されない場所は少ないし、特殊な道具、材料が必要だと、それらをそろえる段階でしり込みしてしまっても何もおかしくない。実際、何かにチャレンジしようとしても、これらの理由で挫折してしまった人も大勢いるだろう。それを補うことができるのは、社会という大きな枠組みで行うのが最も手っ取り早いし、やりやすい。国や地域行政、学校などが、子供のために、何かを体験できるチャンスを作るべきだ。それは、決して強制されるものではあってはいけないのは言うまでもないだろう。強制しては、かえってそのものへ拒否反応を示しかねない。あくまで、与えるべきはチャンスなのだ。
確かに、現代社会で火おこしや木工が重要視されることはまずないと考えていい。それらは、現代の効率化された生活とはもはやかみ合わないのだ。フィクションで、普通の場面なのにいちいち煙草の火をつけるのに、火打石や木の棒を使う主人公を見たいという人は、おそらくそうそういないだろう。わざわざ材料を買って、家具をDIYするよりも、ネット通販で購入した方が、はるかに楽で品質も保証されている。ほかにも、手紙をいちいち出すより、ラインで会話する方が安くて速いし、料理をいちいちするより、それを買って来たり外食する方が、むしろ雇用も生まれる。しかし、機能の面で劣っていても、それが楽しくないとは限らない。人間は、いや、生き物は、楽しさを見つけないとやっていけないと思う。その楽しさの一つに、物の価値を見出す、物の価値を味わうこともあるだろう。当然だが、それが性に合わない子供もいる。そのような子供を、社会不適合者かのようなぞんざいな扱いをし、貶めるようなやつははっきり言って嫌いだ。反吐が出る。我々は、子供に楽しさを強要するのではなく、チャンスを与えるべきなのだ。国家という、大規模な枠組みがせっかくあるのだ。この強大かつ強力な仕組みを利用し、存分に人生を楽しめるように、物の価値に気づくチャンスを、より多くの子供に広げるべきだと、私は思う。