たしかブリーズ・パスカル
   中1 あこうあ(akoua)  2025年3月1日

 確かブリーズ・パスカルだったと思いますが、だいたい次のようなことを申しました。「疾患は、キリスト教徒の自然の状態である」、と。いつまでも自分のどこかが具合が悪い、どこかが痛むこと、言い換えれば、中途半端で割り切れない存在である人間が、己の有限性を染々と感じ、常に心に痛みを感じているのが、キリスト教徒の自然の姿だと申すわけなのでしょう。人間はとにかく「天使になろうとして豚になる」存在であり、しかも、サボテンでもなく亀の子供でもない存在であり、さらにまた、うっかりしているとライオンや蛇や狸や狐に似た行動をする存在であることを自覚した者の憤然とした、鎮痛な述懐になるかもしれません。「狂気」とは、今述べたような自覚を持たない人間、あるいはこの自覚を忘れた精神状態のことかもしれません。我々は「天使になろうとして豚になりかねない」存在であることを悟り、「狂気」なくしては生活できぬ存在であることを悟るべきかもしれません。豚になるかもしれないから、豚にならなぬように気をつけて、慣れないことは判っていても天使に憧れ、誰しもが持っている「狂気」を常に監視して生きねばならぬという結論は出てきても良いと思います。だから私は人間には狂気」というものが必要だと思う。

 第一の理由は、「狂気」と呼べるほどの集中力がなければ、世紀の大発見をしたり、物事を成し遂げることができないからだ。例えば電気を発明した有名な発明家「トーマスエジソン」は「天才とは1%のひらめきと99%の努力だ」という言葉を残しており、「狂気」と呼べるほどの集中力がなければ世紀の大発見をしていなかっただろう。実際に私も、体育のレポートを作成するときに、国語のワークシートのように友達と話しながらではなく、一人で黙々と進めてみた。すると、授業時間が短く感じるほどの集中力を保てたのだ。この「狂気」と呼べるほどの集中力で書き上げたレポートは完璧に近い形で書くことができた。

 第二に、何も変わらない毎日では退屈で飽きてしまうからだ。男性のストレス解消法に、「趣味や創作に没頭する」というものがあった。このように、「狂気」と呼べるほど、何かに没頭すると、普段とは違う快感が味わえてストレスの解消にもなる。私はゲームをするときに、このような管各区を味わうことができる。新しく買ったゲームをプレイしている時は、とても楽しく二段落で書いた体育のレポートのように時間が一瞬にして過ぎていく。

 確かに本能に任せて後先考えずに行動してしまうと後悔してしまうことがある。しかし、「行動するためには、多くのことを無知でなければならない。」という名言もあるように、何かを成し遂げるためには「狂気」という力も大切だと思う。