壁の定義
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人間の欲という量的存在を優先するあまり、それを制御することをおろそかにしていることは現代社会における問題である。

 その原因として、相手に注目するあまり自分を見ることのなかった競争社会がある。生まれてから死ぬまでの間、私たちは何度も他者と比較をされる。モノが飽和している現代における呪縛とでも言おうか、大抵の行動に対して比較というものは付き纏う。分かりやすい例としては受験がある。現に、私も受験をした身としてその苛烈な競争と比較を味わった。この受験において関わってくるものに塾の存在がある。ここで少しばかり私の塾での話をしよう。私が入塾申し込みを行い初めて受けたのは入るクラスの決定、実力テストだ。私の通った塾は三段階のレベルでクラスが分けられており、実力テストや定期的に行われる学力診断テストを通じてクラスが設定される。このクラス分けシステムはもちろん絶対評価ではなく相対評価である。他者よりどれだけ点が高かったか、その一点のみで決定される。つまるところ、努力をいくらしたかなんて全く関係なく、結果さえ出せれば上のクラスに行くことが出来るのだ。志望校に行きたいという強い思いがあった私は、上へ行くために毎日勉強をした。当然の話だが、試験結果が出るまで他の人がどれだけ出来るかなんてわからない。だからこそ、己の出来るところまで、他者より良い結果を出すためにひたすら勉強するしかなかったのだ。そんな塾での日々を過ごしたわけで、結果的に志望校に受かることはできた。その志望校に入学することも、結局のところ比較なのである。自分が満足するようにできたかではなく、他と比較してできているかどうか。それが生み出すものは際限ない欲求である。そう、他者より強く、他者より先へ、他者より上へと走り続ける人間の欲求にゴールは存在しない。何故ならば、そのゴールは自分にしか定義しえないからだ。他者という変数がある限り伸び続けるゴールを固定する唯一の方法は自制、すなわち競争をやめることだけだ。そうして初めて、私たちは喜びを得、満足することが出来る。自分を見ること、それが幸福への第一歩なのだ。

 第二の原因として、単にその欲という存在が増加しすぎたことが挙げられる。近年では少子高齢化現象による人口減少が危惧されているが、歴史を見るに今の人口は十分と言っていいほど、それ以上に多い人口であろう。昔の人間から個体は変化していないことから、昔に比べて今はより欲が多い状態といえるだろう。これを制御することは、人々に今まで可能であったことを禁じることと同義である。当然、それは簡単なことではない。というよりかは極めて難しい難題である。自然界においても同様だ。例えば、イエローストーン国立公園における鹿の増殖問題がある。元々、イエローストーンにおいては捕食者としてオオカミがいたために生態系の均衡が取れており、鹿が大量増殖するなんてことはなかった。しかし、密漁によって狩りつくされ、オオカミは絶滅してしまった。その影響で、本来捕食されることで死亡する鹿たちがそのまま生存し、大きく個体数を伸ばしていったのだ。公園にある草木を喰らいながら増殖する鹿の影響で、公園に生えていた植物はその姿を消した。結果、生態系に大きな被害が出てしまった。この鹿に人間の欲を当てはめればわかりやすいだろう。欲の増加はその欲を叶えるためのものを必ず食い潰す。オオカミのような制御できる存在がいなければ。また、公園の話には続きがあり、人間によってオオカミを輸入し、再度増やすことによって鹿はまたその数を抑えていった。そして、今では公園内に緑が戻っている。今制御すればまだ間に合うのだ。まだ絶滅は起こっていない、この今であれば。公園においては上位種である人間の介入で事なきを得ているが、今のところ人間に対する上位種は存在しない。我々だけで解決できるかどうかはかなり難しい話ではあるが、人間の未来を守るためにも、我々はこの増加し過ぎた欲を制御しなければならない。

 ただ、欲は決して悪ではない。ここまで人間の成長を促してきたのは欲であった。先がある限り湧いてくる欲によって、欲による争いの結果に私たちの暮らしはある。しかし、物事には限界が存在するのも事実だ。欲に限界はなくとも、周りに限界はある。だからこそ、欲を最大限活用するためにも制御することが必要なのだ。壁は抑圧するためではなく、保護するために存在する。我々は先を見据え、過剰を防ぐために今、我々自身を制御していかなければならない。