共同体的意識を持つ
   中3 あえもも(aemomo)  2025年3月1日

  今日では、道徳的共同体をつぶしてきた法的社会が国家となっている。共同体の本質は感覚であるから、情が尊ばれる。一方、法は、情に流されないための努力が必要だ。現代人は、この両者間をゆれている。しかし、孔子はそうではなかった。彼は、父の犯罪を証言した子どもを批判するというような、共同体的意識からなる道徳政治の組織的理論化や、理論的指導を行った。彼の時代は、各種共同体が機能しており、犯罪が起こっても、その罰を決めるのは、共同体をリードする道徳にどうそむいているかという点であった。そのため、共同体の有力者が罪を犯し裁かれるとき、その人の部下は、法優先の公の立場からは指弾されても、同じ共同体のメンバーからは賞賛される。このように、法的社会と道徳的共同体との関係は、いまもって善悪の判断のむつかしい問題を抱えているのである。このことから私は、共同体的意識をもった生き方をしたい。

 その方法としては第一に、他人の行動から、本当の善悪を見極めることだ。私の学校では、スマートフォンを校内で使用することが固く禁じられている。もし、使用していることが教師に見つかれば、即生徒指導室へ連行される。数年前、校内で英検が実施されたときのことだ。私たちは、英検の記入欄に実家の住所、電話番号等の個人情報を記載する必要があり、事前に個人情報をメモしてこなければならなかった。当日の朝、友達が「個人情報メモしてくるのを忘れた!」と急に思い出してように喚き、「トイレで、スマホ使って電話番号調べてくる!」と言い出した。勿論ここは、校内である。この行為が見つかれば、後は、教師からの雷に耐える運命だ。私は、規律を順守しないことが苦手だったため、何とか友達の行動を止めようと試みた。ところが、私があたふたしているうちに、友達は、いつの間にか安堵した顔でトイレから戻ってきた。どうやら上手くいったようだ。その後も何事も無く、英検は無事終了した。スマートフォンを校内で使用することは確かに禁止だ。しかし、この校則は、学校の雰囲気が乱れないようにするために制定されてものである。そう考えると、今回の件は、本来の校則違反には入らないだろう。友達も悪気があってやった行為ではないはずだ。こうした、悪気の無い、もしくは、他人への害が無い規則違反に関しては、共同体意識をもって行動すべきだと考える。

 第二の方法としては、法律を執行した人の人間性も重要だということだ。例えば、イタリアの「トリノ」という地域で制定された条例に、「犬の散歩を一日三回以上行わなければならない。」というものがある。散歩は勿論徒歩で、違反が見つかると、五百ユーロ、日本円で約八万円罰金が科せられる。この条例制定の理由は、ヨーロッパ諸国の人々に、動物愛護の精神が進んでいるからであろうが、特にこの地域の条例制定者は、犬への愛護心が人一倍強かったのだろう。しかし、一日三回というのは、仕事や自分の生活スタイルとの兼ね合いがかなり厳しい。私も、このような条例が制定されたら、いくらかわいい愛犬も手放す決断を下すだろう。また、違反している人を見つけられるのは、近所の住民である。誰が何回犬の散歩をしているのか確認していたら、気疲れをして参ってしまう。勿論、明らかに条例を順守する気のない人を通報するのは、犬にとって大きなメリットだ。しかし、ここは、共同体的意識を優先することが大切だと考える。 

 確かに、法的意識が高まれば、非行数は減少する。しかし、「家の批評ができるのは、建築家ではなくそこに住む人である。」というように、共同体的意識を持つ方が、仲間を守ることができる。私は、今まで、正式に定められた規則を守ることが何よりも妥当だという概念に付きまとわれ、少しでも違反している人を見る度に不愉快な気持ちになっていた。しかし、これからは、それを違反することがなぜ、悪行とされているのかまで考え、共同体的意識を適切なタイミングで持ってくことのできる人間になりたい。