こどもの特権
中3 あかれり(akareri)
2025年3月1日
筆者は学童のあそびには多くの想像力や抽象思考力がはいってくるからきわめて多彩なものになると考えている。ゲームとは、あそびの一種にすぎないとはいえ、この種のあそび活動を通して社会的ルールを守ること、そのために他人と協力すること、つまり倫理の基本的訓練が行われる。修身の訓話よりもこうしたあそびの中で子どもの社会性が育って行くことを考えれば、それだけでもあそびの重要性がわかる。彼らの新鮮な感受性と、奔放な空想力をうまく発達させ、大人の卑小な「現実」を乗り越えさせるのだ。結果新しい精神の世界を生み出す基礎能力となるのだから、大人はなるべくこの芽をつんでしまわないように、むしろ子どもから学ぶようにする必要がある。
たしかに子ども時代の遊びから得るものは多い。私も含めて誰しもがしたことがあるだろう鬼ごっこでも様々なものを得ることができる。例えば協調性や計画性、社会性などだ。助け鬼だった場合協力してつかまっている人を助けたり、二人で挟み撃ちをして一人を狙ったりなど協力してゲームを展開させていくことができる。また、つかまった人は牢屋に行かなければならないという基本的であり絶対的なルールを守らなければこのゲームは崩壊する。一人一人がルールやマナーを持っている、また遊びを通して得る事で鬼ごっこのような遊びは成り立っているのだ。その点でいえば社会性を身に着けることも可能というわけだ。
しかし勉強しなければ身につかないものもある。大抵はそうだろう。中学校の序盤で習う因数分解。これは中学校に入らないと知ることもないうえに生活に使うわけでもない。中学校という場所で勉強しないと身につかないものなわけだ。生活するうえで使わないなら身に着ける必要はない。そう考える人も少なくないだろう。それはその通りである。しかし、100%そうではない。知識を直接使わなくても物事を深く考える力や問題解決能力に繋がったり、意外な場面で使ったりするかもしれない。特に因数分解はパズルのような感覚で解くことができるためそのようなことがより一層言える。また、学ぶ過程そのものにも価値がある。新しいことを学ぶ習慣があればどんな環境でも適応しやすくなるだろう。要するに、今使わないから不要だと考えるのは早計だというわけだ。昔話からも言えるだろう。桃太郎は鬼退治に行く前に黍団子を使い三匹を仲間にしたがそれは知恵を使った交渉力によるものである。浦島太郎ではもし未来や時間の流れについて学んでいたら違う選択をできていたかもしれない。つまり勉強をしていればいざという時に役に立つのだ。
確かに子供時代には遊ぶことも勉強することもどちらも大切だ。しかし「子供時代を楽しめ。大人になれば自由はない。」という言葉があるように一番大切なことは子供であることを利用してその時にしかできないことをたっぷり行うことである。