昔話に込める思い
小6 みお(aemio)
2025年3月2日
文学的に価値のある作品とは私たちの心を楽しませ、人間についての私たちの理解を助けるものである。そして、「心を楽しませる」ことは、内容だけでなく、表現の形式からくる美しさによって成り立つものであるのだ。そのような作品の代表例は昔話と創作だ。特に昔話は一般大衆の文学であるため、取り扱うテーマは普遍的、根源的である。しかしそれ以外にも昔話にはもっと大きな力があるのではないかと感じる。お話に興味を持つ者にとっては、昔話は絶えずそこに自分をうるおしにいかなければならない泉のようなものだと思うのだ。
私は保育園に通っていた頃、アンデルセン童話の「みにくいアヒルの子」を読んで学んだことがある。「みにくいアヒルの子」は、一羽だけ毛が黒く、外観が違っていたため他の兄弟や友達からいじめられていたが、春になり毛が抜けて落ちると、実は美しい白鳥の子供だった、という話だ。私はこの昔話を読んで、人や物を見た目で決めつけたり差別してはいけないということがわかった。また先入観にとらわれず、さまざまな人と接するようになった。私は、「金のおの銀のおの」を読んで、自分が得するためにウソをつくのは良くないのだと学んだ。ウソと一言でいってもいろんな種類がある。だまして人から物を奪ったり、詐欺をしたりするのはいけないことだ。しかし相手のために真実をぼやかして伝えるのは人によって、また場合によっていいときとだめなときがある。だから私は、本当のことをいうときと言わないときで上手く使い分けていこうと思う。
私の学校には、「すばなしの会」という会があり、学校の外から定期的にボランティアの方々が来てくれて日本だけでなく世界の昔話をしてくれる。私はそのとき、ボランティアの方々はなぜ私たちに昔話をしてくれるのだろう、という疑問を持った。そして自分でその理由を考えてみたら、昔話を通して、伝えたいことがあるからではないかと思うようになった。だから私は今までよりも熱心に話を聞き、語り手が昔話に込めたメッセージを読み取ろうと思ったのだった。
私の母は「舌切りすずめ」の話を読んで、欲張りをしたり、意地悪をしたりするのは良くないと感じたそうだ。昔話には具体的な話や情景が設定されたいるため、もし子供が誰かにいじわるをしてしまっても昔話を思い出せば、自分があんな目にあったらいやだな、と思えるようになると思う。また、いじわるをするとそれは後で自分に返ってくるし、欲張りしすぎると自分の手に負えなになってしまう。スマホのゲームだってそうだ。欲張って課金をたくさんしたり、親に許可をもらっていないゲームをしたり。そうしたら急に大金を請求されて大変なことになってしまう。だから私は欲張りすぎず、人と楽しく関わり合おうと思った。
人間にとって昔話とは心を大きく、強くしてくれるものである。昔話は内容が分かりやすく、すっきりとまとまっている場合が多いため、覚えやすい。だからこそ、昔話に含まれている、人間にとって大切なことも頭に入りやすく、忘れづらい。三つ子の魂百までということわざがあるように、小さい頃に身についたことは大人になっても続いている。それがマイナスなことではなく、プラスのことになるように、私はこれからも昔話を読み、昔話からたくさんのことを学んでいきたいと思う。