情報と真実(long.ver)
   高2 ばにら(tokunaga)  2025年3月2日

日本における言論の自由は、世界に類を見ないほど保証されているように思う。政府や体制への批判を公の場で行っても、攻撃や弾圧はされにくい。文章や創作物が検閲されることもない。しかし、これらの自由を謳歌する日本の言論機関については、その公平性において問題があるように見える。日本の「第四の権力」とさえ言われるマスコミの報道には、世論誘導や少数意見の抹殺に近しいものが多々見受けられる。それは社会正義によるモラルから生じているものではない。むしろ、視聴率やスポンサーの支援による金益、つまりは商業主義によるものである。中立の立場で報道しているという建前、客観的な事実と社としてのメッセージの境界線が曖昧だ。こういったメディアの姿勢によって、正確な情報の享受が困難になっているように感じる。だからこそ、日本の報道機関の問題点を認識し、議論する必要がある。しかし、それ以上に重要なのが、私たち一個人が客観的事実に関する情報を精査することだ。そのためには、二つの方法が考えられる。



第一に、他者から提供される情報に対して、常に懐疑的な目を向けることが前提として肝心である。その他者というのは、言論機関つまりはラジオ、新聞、テレビかもしれない。あるいはSNSや周囲から伝え聞いた噂ばなしである。人の噂ばなしに尾鰭がつくことはよく見られる現象だし、一般認識としてあるだろう。噂を全て信じる人間はむしろ少ないと思う。だが、言論機関によってもたらされる情報もまた疑わなくてはならない。特に、日本においてはメディアによる報道を真実として鵜呑みにする人が多いように感じられる。その理由を考察してみよう。

元来、戦後の日本は思想的な大変動に身を置いていた。昭和中期には極右、極左の思想団体による事件が多発し、それによって多くの国民は思想的な偏りを忌諱するようになった。だからこそ、報道機関にも中立性や客観性を求めたのだ。しかし、報道機関も人間が運営し、加えて利権争いが絡むことから、中立性なぞは確立し得ない。だが、その建前を堅持したまま権力を膨張させてきたことから、自身は「客観的真実を体現している」という姿勢を崩せないのだ。そもそも、報道機関に完全な中立性を求めてはならないのである。それを私たちは認識するべきだ。

確かに中立性、客観性を主張する意見は事実判断をする上で有用に思える。しかし実際にはそれは人間には完全に確立し得ないものである。実際に、民主主義下にある諸先進国の報道機関は、明確に自身の立ち位置を示しており、受け手もそれを了解している。例えばフランスにおいては、二大機関紙の「ル・モンド」は左派的で、「ル・フィガロ」は右派的ということを明確にしているし、義務教育の範疇でも学ぶことだ。政治思想について根深い分断が人々の間に生じている韓国も、保守系の最大紙である「朝鮮日報」や、逆に最左派の立場をとる「ハンギョレ」で全く違う見解を提示している。そして、テレビなどの情報媒体も、各社に関連があることが承知されている。だからこそ受け取り手も、自身の意見を認識し、それに見合う媒体を選択する権利を最大限に享受できるのだ。

しかし、その意識は日本において根付いていない。結局のところ、真実か真実でないかという二元論しか許容されていないように感じる。だが、他者から提供される真実ばかりを追い求め、そればかりを信じようとするのは思考停止でしかない。人間故の主観性を許容し、その上で自身の立場や見解を確立して行く意識が、今の日本社会において希薄である。だからこそ、私たちは与えられる情報を受動的に飲み込むだけでは満足してはならないのだ。それについて、より発展的な思案を行い、自分固有の意見を構築することを目指すべきである。そう私は推察している。





第二に、自分が興味のある、または自身の活動に強く関連する事柄については、自発的に一次資料にあたる必要がある。情報媒体から受け取った内容で満足するのではなく、その出展元を明らかにし、一次資料を見つけ出すのだ。その重要さは現在のネット社会が強調している。ネット、つまりは蜘蛛の巣の中で、規制を受けずに常に伝達され続ける情報群。その中に蔓延るフェイクニュースや、元の体が残らないほど尾鰭のついた話・・・。これらの危険性は昨今では広く承知されている話だろう。しかし、これらの現象は現実世界でも起こりうる。例えば、問題に挙げられるのが「切り取り報道」である。実際にされた発言を切り取って、大元の本筋とは著しく外れた内容に編集しなおす、一種の偏向報道である。これによって、情報の受け取り手は「嘘ではない虚実」を真実と思い込んでしまうのだ。その場合、一次資料(例えば発言の全容)を参照してみることが必要になる。

さらに、一次資料自身が偽であり、その上に積み重なったものも必然的に虚構である可能性もある。その最たる例が「コンスタンティヌスの寄進状」だ。この文書においてはローマ皇帝が教皇領を寄進したとされ、キリスト教権の正当性についての主要な根拠であった。すなわち、その後のヨーロッパ世界の中心的存在の礎であったのである。しかし、文書が作成された十世紀後に正式にその偽性が確定した。これによって、今までのカトリック教会の真実性が否定された。同時に、これは中世以降のヨーロッパの歴史が偽書を根底に形成されたということに他ならない。

このように、歴史を左右するような資料さえもがそもそも全くの偽であるような世界の中で、私たちは物事を見極めなければならない。ましてや他者から伝わる二次、三次情報の信憑性を盲目的に信じるのは愚策である。だからこそ、自分の判断基準となるような事柄については、一次資料を目の当たりし、精査することの重要性を主張したい。





確かに、情報過多に陥る一方の世の中で、いちいち全てのものに猜疑心を抱き検証する余裕は私たちにはない。重ねて、情報の真実性を分析するには大きな労力がいる。結局、事実とは多少異なっていても周囲がそれを信じるなら、それでも良いのではないか。そう考えてしまっても仕方がない。しかし、情報はやがて知識になるものだ。自らが生きる世界を正しく解釈するためには、まず正しい知識を基礎にしなければならない。だからこそ、自分自身に強く影響しうる情報に関しては、最低限その事実確認や客観性の分析を行うべきだ。情報を制するものは戦いを制する。かの有名なロスチャイルド家は、情報を武器として戦ってきた。いち早く正確な情報を受け取ることで莫大な財産を築いてきたのである。ゆえに、偽の情報に左右されることなく、自らの正確な知識を利用して行動してくことが必須なのだ。それこそが、複雑怪奇なる人の世情を有利に生き抜く上で最重要の計略ではなかろうか。