レトリック感覚の素晴らしさ
中1 あきたい(akitai)
2025年4月2日
ふだん私たちは、コインを丸いものと見なしている。けれども、もちろんコインは、円形に見えるわけではない。水平方向から眺めれば、あきらかに薄い長方形に見えるはずだ。レトリック感覚は、私たちの認識と言語表現の避けがたい一面性を自覚し、それゆえに、もっと別の視点に立てばもっと別の展望がありうるのではないか、と探求する努力のことでもある。創造力と想像力のいとなみである。レトリック感覚は、人をできるだけよく理解するためにこそ必要なのだ、ということになる。新しい視野を獲得するためにも、また、相互理解のためにも、こんにちほどレトリック感覚の必要とされるときはかつてなかったように思う。僕は、レトリック感覚のおかげで塾の新しい見方に気づいた。なので僕はレトリック感覚は、良いものだと思う。
第一の理由は、レトリック感覚を使うことで物事を新しい方向から見れるからだ。僕の体験は、僕の学校では塾は、「地獄、災厄な場所」などとにかく嫌な場所だと思っていた。けれど僕ももう中学生になるので塾に行ってみたいと思い行ったのだ。すると確かに楽しそうな場所ではないが勉強が集中してできる場所ならそれは、最高の場所だとも思えてきたのだ。僕は、まだ実際通ってはないのだが、とてもためになるいい場所だと感じたのだ。このようにレトリック感覚は、物事をあたり方向から見ることができるので僕は、いいものだと思う。
2つ目の理由は、レトリック感覚は今ままで盲点だった部分を気づかせてくれることだ。僕は、このレトリック感覚のおかげで今まで気づけていなかった人の優しい部分や逆にあまり信用できない部分にも気づかせてもらった。これを使うまでその人を僕はただ単に「うざい、ひどい人」だと思っていた。しかしその人が他の人と話している所を見るといじっているのだがそれがユーモアにつながっているのだ。けれどそれで人を傷つけるとこがあることにも気づいた。なので僕は、レトリック感覚は今まで気づいていなかった部分が気づけるものだと思った。
しかしレトリック感覚ではなく、一つの方向の見方で深く考える人の気持ちもわかる。確かに一つの方向で深く考えるとそれでしか気付けないこともあると思う。けれどそれでは、もう一つの方向の部分が見えなくなると思うのだ。例えば人の場合その人が優しいと言うことを深く考えると、どういうことが優しいのかがわかると思うだが、別の方向から見ると何に弱いやなんでもOKにしてしまうところなど長所と短所両方気づくことができる。なので僕は、レトリック感覚の方がいいと思う。「雑草とは、まだ、その美点が発見されていない植物である」という名言があるようにレトリック感覚を使うことによってその人や物などの新しい部分を気づくことができるのだ。なので僕はレトリック感覚はいいと思う。