昔の中国の場面です。
「親の不正を役所に届けた感心な子です」 これは法的倫理です。 一方、白髪のおじいさんは、孔子という人です。 「それは親不幸というのじゃ。コキーン」 孔子は、共同体的倫理を代表していました。 別の場面です。 「決を取ります」 「あなたの方が間違ってると思うけど、友達だから手をあげるね」 「ありがとう」 このように、正しいか正しくないかということよりも、自分の仲間かどうかということで判断します。それがいちばん大きい判断の基準になっているのが共同体倫理です。 最初の意見は、共同体的な生き方をしたい。 そのためには第一に法律よりも人間を大切にすることだ。 また第二に法律を執行する人の人間性も必要だ。 確かに法律に基づかない運営は不明朗になりがちだ。しかし、私たちはもっと共同体的なものの見方をしていく必要がある。 もう一つ見てみましょう。 「友達だから間違っていたって、あなたの味方よ」 「ありがとう」 これは、共同体的な社会です。 法的な社会はこうです。 「1点足りないから規則どおり不合格ね」 「ガーン」 規則どおりの好きなこの人は、いかにも四角四面の人です。 法的な倫理も、もちろん必要です。しかし今回はこの長文に合わせて、共同体的な価値観を大事にして生きていきたい、と書いていきます。 そのためには第一に、規則よりも人間を大事にすることだ。 「規則なんて形だけだから」 「サンキュー」 第二の方法は、論理を超えた日本的な文化を見直すことだ。 昔、赤ちゃんがいました。 「私の子です」 「私の子よ」 大岡越前守は言いました。 「引っ張りっこをしてみよ」 母二人に引っ張られて泣く子供。思わず手を放す本物の母親。 急に手を放したので、子供は、頭をぶつけてしまいました。(その方がかわいそうだろ) 判決は、「先に手を放した方の勝ち」。 こういう文化を身につけるためには、水戸黄門を見ることも大切かもしれません。日本の文化は法的倫理を超越した文化を持っているということです。 |