授業の渚 re-03-2


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 たき火には、心の交流があるようです。火を見ていると、なぜか懐かしさがわいてくる人も多いでしょう。また、火には、オリンピックの聖火に見られるように、象徴的な意味を持つものもあります。
 しかし、現代の火は、火というものから明るさだけの要素を抽出した蛍光灯、熱の要素だけを抽出した電子レンジなどで、合理的にコントロールされたものになりつつあります。
 この実用的な火、物理現象としての火によって、現代人は、かえって大事なものを見落としているのではないでしょうか。
 火の持つ文化的、精神的な要素をもう一度見直すためにはどうしたらいいのでしょうか。「火」というひとつの例にとらわれず、より大きく「自然」というものについて考えていくと書きやすいと思います。
 第一は、ゆとりのある心を持つことです。お茶を点(た)てるときのお湯を、レンジでチンしたり、湯沸かし器で入れたりする人はいないでしょう。こころの余裕が、より潤いのある見方を可能にします。 伝記実例:信長は桶狭間突撃の前夜、敦盛という舞を舞ったと言われます。戦いや勝ち負けという殺伐とした物理的なやりとりを、自分の人生の中に位置づけて見る文化があったのでしょう。
 第二は、社会全体もゆとりのあるものになる必要があるということです。例えば、公園の噴水、歩道の敷石の模様、野鳥の餌台などは、合理的な意味で言えば必ずしも必要なものではありません。しかし、そういうものがあることによって社会全体に文化的なゆとりができてきます。
 確かに、実用性は大事です。特に、日本の社会のように過剰包装など実用よりも外見を重んじる文化のある国では、実用性の大切さは強調してもよいと思います。しかし、その実用性だけに流されない文化的なものも私たちは忘れてはならないということです。