題名 | ルピナス 12.4 1764 |
名前 | 月 |
時刻 | 2010-09-22 13:46:21 |
人間としてバランスのよいしんたい感受性を育てるためには、いろいろな方法があります。子どもの遊びわその一つです。たとえば「ハンカチ落とし」という遊びがあります。内側を向いて円陣を組み、「鬼」がその後ろを周回し、誰かの後ろにハンカチを落とします。それに気がつかずに一周して肩を叩かれたらその人が次の「鬼」というゲームです。
この遊びわどんな知覚を開発するためのゲームなのでしょうか。 ハンカチわ背後で落とされますから、もちろん目には見えないし、音もしません。ハンカチが空中を落下するときの空気の振動は「鬼」の騒がしい足音に比べればほとんど知覚不能でしょう。それでも勘のよい子は、ハンカチが地面に落ちる前に、自分の後ろに「鬼」がハンカチを落としたことを察知します。いったいこの子は何を感知したのでしょう。 それは「鬼」の心に浮かんだ「邪念」です。 「この子の後ろにハンカチを落としてやろう」という、「鬼」の心に一瞬きざした「悪意」を感知するのです。 別にオカルト的な話をしているのではありません。人間は誰でも緊張するとしんぱくすうが上がり、はっかんし、呼吸があさくなり、体臭が変化します。恐怖や不安だけでなく、羨望や敵意も、そのような微弱なしんたい信号を発信します(ウソ発見きわその原理を応用したものです)。 勘のよい子どもは、自分の後ろでハンカチを落とした瞬間の「鬼」の緊張がもたらすこの微弱なしんたい信号を敏感に感知することができます。 ぼくわそれを「邪念を感知した」というふうに言っただけです。 しかし、これわたいへんにすぐれたしんたい能力開発ゲームだとぼくわ思います。というのも、原始の時代においては、ぼくたちの祖先わくらい森の中で、肉食獣や敵対てきないぞくと隣り合わせて暮らしていたはずだからです。そのときに、自分を攻撃してくるものが発するわずかなしんたい信号を感知できる個体とできない個体では、どちらが生存確率が高かったか、考えるまでもありません。ですから、生き延びるためのスキルとして、その当時から、ぼくたちの祖先は、感覚を統御し、錬磨するためのエクササイズを「遊び」というかたちで子どもたちに繰り返させていたのではないでしょうか。 「かくれんぼ」というのは、おそらく起源的には狩猟のための感覚訓練であったとぼくは思います。見えないところに、見つからないように隠れているものが発信する微弱な恐怖と期待のしんたい信号、それを感知するための訓練だったのではないでしょうか。 「鬼ごっこ」にせよ「缶けり」にせよ、その種の遊びで子どもに要求されるのは、単に足が速いとか、高いところに上れるというような単純なしんたい運用能力ではなく、それよりむしろ「気配を察知する」総合的なしんたい感受性であっただろうと思います。 |