毎月の森リン大賞
森リンの丘
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4月の森リン大賞と上位入賞者(小1の部15人中)
4月の森リン大賞と上位入賞者(小2の部66人中)
おいしいおいしいハンバーグ
るなるな
わたしは、昨日の夜、いつもと違うハンバーグを食べました。そのハンバーグには、大量のチーズと大根が乗っていました。そのチーズと大根が乗っているハンバーグは、いつも食べていたハンバーグとは味が違っていて、ハンバーグの中の私のお気に入りになりました。そのハンバーグを食べて、
「おいしいね。」
とパパに言いました。その後、パパがにこにこして、
「良かった。」
と、うれしそうに言いました。私も一緒に少し笑いました。まるでハンバーグの国で、幻のハンバーグを食べているような気がしました。どうしてかというと、そのハンバーグが思っていたよりずっとずっとおいしかったからです。私は、たくさん食べられて満足でした。ハンバーグを握るときのコツをパパに教えてもらいました。ハンバーグを握るコツは、力強く握るのではなく、優しいけれどガッチリとつかむのだそうです。どうしてかというと、強く握ると形が整わないからです。食べ終わったら、パパに、
「おいしかったよ。」
と、やさしい声で言いました。そうしたら、
「おいしかったよね。」
とパパも言ってくれました。食べ終わったとき、まるでハンバーグが食べ放題の場所にいるような気がしました。私は、ハンバーグがたくさん食べられたから、今度は私がパパにハンバーグを作ってあげたいなと思いました。
4月の森リン大賞と上位入賞者(小3の部122人中)
学校への秘密の道
みきひさ
「よ~し学校へ行くぞ!」
朝七時ごろに家を出ます。次に家から駅まではバスで五分です。駅に着くと、電車に乗って、二駅で降ります。最後にスクールバスに乗って学校へ行きます。家から学校までだいたい四十分くらいで着きます。
「おはよう。一緒に行こう!」
「いいよ。」
友達が電車のホームにいると、わくわくします。なぜなら、学校まで友達とたくさんお話できるからです。友だちに会える時と会えない時があります。会えない時はずっと本を読んでいます。本を読んでいると、学校までの時間がとても短く感じます。
スクールバスに乗っている間、僕はたくさんの桜を見ました。花びらがまるで紙吹雪みたいにサラサラと舞っていました。もし、花びらに乗って空を飛んで学校まで行けたら、寝坊しても時刻表が関係ないので遅れなくていいのになぁと思いました。
僕は、お父さんとお母さんに内緒にしていることがあります。それは、電車を一本遅らせて帰ることです。理由は、友達と一緒に帰りたいからです。もしかしたら、気付いているかもしれません。お母さんに同じようなことがないか聞いてみました。すると、寝坊した時に内緒で少しでも早く着くために、先生が
「駄目だよ。」
と言っていた、田んぼの畦道を通って学校へ行っていたそうです。すると、二十分かかっていたのが十分で着くけれども、雨が降ったときは、靴に土がつくのでばれてしまうという欠点があったようです。だから、汚れなさそうなところを目指してトントントンとジャンプしていたそうです。まるで、忍者みたいです。
僕はいつも同じ通学路なので、あきあきしています。だから、たまにはお母さんみたいに違う通学路で行きたいなと思いました。けれども、僕には他の行き方がないのでできません。そこで、少しでも飽きない方法を考えてみました。春は花がたくさん咲いているので、花を観察しながら行くといいと思います。それにプラスして、虫を観察するのもいいでしょう。みんなにも試してほしいと思います。
4月の森リン大賞と上位入賞者(小4の部190人中)
おいしかった物、おいしくなかった物
すみれ
「お母さん、黒いスパゲッティちょうだい。」
とお母さんにお皿を出しました。
私が初めて食べたものは、イカスミスパゲッティです。私がイカスミスパゲッティを食べる前は、イカスミパスタを知りませんでした。
私はスパゲッティの中で一番好きなのはカルボナーラです。最初はカルボナーラやミートソース、トマトスパゲッティしか知らなくて、サイゼリアというレストランに行くと、いつもカルボナーラを頼みました。
見た目は、カルボナーラはクリーム色なのに、イカスミパスタはビターチョコレートがかかったような黒い色でおいしくなさそうだったけど、食べてみるとおいしかったです。イカスミの味にはまるので、全部食べたいとお母さんに言いたいくらいでした。
アボカドも初めて食べました。もともとアボカドを好きではありません。日曜日、習い事から遅く帰ってきた時、夜ご飯を食べようとしたらアボカドのソースがかかったサラダが出ました。あー、これ食べたくないなー、と心の中で思いました。我慢して食べてみるとやっぱりおいしくなかったです。
私は小学二年生の頃、兄と一緒にトルコアイスを初めて食べました。トルコアイスの本当の名前はドンドゥルマンと言うそうです。兄はトルコアイスを食べたがっていて、よくパソコンで調べていました。私もトルコアイスを食べたくて、兄が調べていたパソコンをずっとながめていました。兄は公園で、トルコアイスの移動販売車を見付けて喜んでいました。店員さんは、トルコアイスをのばしてコーンに付けていました。トルコアイスはトルコの山岳地にある自生するラン科の植物の球根を粉末にしたサーレップ、が原料として使用されているためトルコアイスは伸びます。
トルコアイスの味は、甘いミルク味やバニラ味が基本そうですが、チョコレートやコーヒー、チャイ、ピスタチオ味もあるそうです。チャイと言うのは、紅茶味です。私と兄が食べた味はミルクの優しい味でした。伸びて面白かったので、楽しみながら食べれました。
初めて食べるものにはおいしいのと、おいしくないものもあるけど、体の健康のためにおいしくないものも食べて、もっと体を強くしたいと思います。
4月の森リン大賞と上位入賞者(小5の部232人中)
思い出の品
みさ
みなさんは、整理整頓は得意だろうか。私の友達は、みんな掃除が好きなのかどうかは知らないが、少なくとも下手でないのに部屋が汚いよ。とみんなして言う。友達の家でなんどか遊んだことがあるが、全て綺麗なのだ。そんなものを見せられたら自分の家なんか到底見せられないと思う。因みにわかると思うが、私の家庭は「捨てる」ということが苦手だ。もう使わない物だし、価値も無いものなのに可愛いから、珍しいからと何でも取っておいてしまうのだ。私が言えた事じゃないが、特に姉の部屋は散らかっている。よくこんなところで生活できたものだと毎度、姉の部屋を見るたびに思っている。
私も、「捨てる」ということが苦手だ。そのせいで引き出しがまるで会場のように混雑している。母はいつも
「バーゲンセールみたいに混んでいるね。」
と冗談めかしていう。しかし全然笑いごとではない。最近は、意を決して要らないものを処分している為、結構綺麗になった。要らない物を捨てるだけで家は新品の様に綺麗になったことに少し驚いている。母は、床に物を置かない方がいいのよといつも言っていた。私は半信半疑だったが、それが本当だったので、疑っていたことを少し申し訳なく思った。
比較的私達より整理整頓が上手な私の母にも捨てられないものがあるそうだ。それは、この話にも関連している、くずかごのことだ。母が結婚した当時、私のお父さんの方のおばあちゃんに良かったら使ってくれないと貰ったのが、今あるくずかごだそうだ。母は
「結構使ったし少し見た目もイマイチだし可愛いのに買い替えたいね。」
とだいぶ前から話しているが、一向に換えようとしない。母は、忘れているのだろうか。やはり、くずかごはどんなに汚くても気になりもしないものなのかもしれない。それに、家具屋にいってもくずかごは他の魅力的な家具にセンターを奪われ、端っこの目立たない所にちょこんと座っている。
私は、捨てる決心が大切なことがよく分かった。けれどまだ必要ではないはずなのに捨てられない物がたくさんある。少し言い訳っぽいが、多分その物の中には素敵な思い出が残っているからだと私は勝手に思っている。だから要らないからといって捨ててしまうのではなく少しは思い出を取って置いて欲しい。私の勝手な妄想だが、将来大人になってから思い出の品が無いのは少し寂しいと思う。他の思い出のとり方も色々あるが、一個でもいいから一番の思い出の品を取って置いて欲しい。
4月の森リン大賞と上位入賞者(小6の部245人中)
ダジャレ王者
あかえこ
「徳島では、たくさんとくしますなー。」
シーン。教室は、静まり返った。そしたら、その静まりをみんな笑い出した。私の五年生の時の担任、○○先生は、よく授業中にダジャレを言っていた。ダジャレは、スベるものが多くいつもこんなすべるのという顔をしている。○○先生は、年齢二十九歳、彼女いない、出身地は、広島だそうだ。第一印象は、若いし、冗談もよくいうからなんか優しそうだなと思った。その予想は、大外れいろいろ細かくて、怒るとすっごく怖い先生だった。冗談を言っている先生とは全然雰囲気が違う。怒るとよく机をバンバンと叩いていた。
私は、カレンダー係に所属している。カレンダー係とは、カレンダーを作ったり、クラスの子の誕生日を祝う係だ。私は、○○先生の誕生日が近いことに気づき、授業の一時間を使い、誕生日サプライズをしようと係の子に提案した。そしたら、私の友達が、いいね!面白そうと私の提案に乗ってくれた。提案した時はみんなためらっている感じでのってくれなかったけれども、友達がのってくれたのですごく安心した。友達と二人で○○先生の誕生日会の企画、訳して島誕企画を考え始めた。なんかかっこいい企画名だったので、気分が上がって頑張ろうという気持ちになった。まず飾り付けを考えることにした。結果折り紙で輪っかを作って、それをどんどん繋げていく飾りにした。飾り作りは私が任命された。一人でやるには、間に合うか分からない長さだったので、違う友達に手伝ってもらった。やっているうちに昔の話で盛り上がった。輪飾りは、意外と早く終わった。輪飾りをしている時は、今までにない以上に笑いまくった。輪飾りのおかげで友達との関係がより深くなった気がして、嬉しかった。次に、一時間何をするか考えた。○○先生は、外が好きなので、外でドッチボールをすることになった。企画、運営になるので遊ぶ系は、大会係という遊ぶ司会を務める係に任せた。大会係は、ふざける子が多い係なので、○○先生にばれずに動けるか心配だったが、ひとまず任せることにした。誕生日プレゼントをどうするかが一番悩んだ。ある子とある子が意見が割れて泣いてしまうこともあった。私は、二人が仲直りするようにがんばってフォローするようにがんばっていた。結論は、クラスのみんなが一人一枚、○○先生にバースデーカードを書いて、渡すことになった。自習の時間にそのことを言うと、
「私、習い事ばっかなので書けません。」と言う子や、
「えーめんどくさい。」と言う子がいて書かない子がいた。そしたら私の友達がガツンと言って、その子たちが書いてくれな。私は、その友達がすっごくカッコイイなと思った。すごく憧れた。そして、誕生日会の当日、先生が入ってきたらみんなで
「先生お誕生日おめでとう!。」
と言った。先生は驚いた顔をして、優しい笑顔で微笑んでくれた。そして思いっきし遊んだ。その後に、タジャレ大会を行った。教室中が、笑いに包まれた。普段あまりダジャレで、笑わない私も思わず笑ってしまった。勝者は、先生だった。最後に誕生日プレゼントを渡して、終わった。終わった時は、やりきったという達成感に包まれて、すがすがしい気持ちになった。教室のみんなもまるで、ダイヤモンドのように顔が、キラキラと光っていた。○○先生は最後に、みんなが俺のために、こんなにやってくれるなんて思っていなかった。嬉しくて涙が出そうで、ぜっいに出ませんだった。と言って、みんなを笑わせた。その時の笑いの大きさは、今でも忘れることができない。
私は、母に印象的な先生を聞いてみた。高校の時の国語の先生だそうだ。なぜかというと、何を言ってもボソボソ言っていて、時間さえ過ぎれば、それでよしと言う感情のない先生だったそうだ。母は、その先生を見てこんな先生いるんだと驚いたそうだ。その先生の授業を受けるたびに、ああつまらんないなと思ったそうだ。私は、そんな先生がいたら、絶対に学校に行くのが、憂鬱になるだろうなと思った。その国語の先生は、どのような気持ちだったのだろうと疑問に思った。ボソボソ言うそうなので、私だったら絶対に寝てしまうだろうなと思った。一回その先生の授業をうけてみたいなっと思った。
私は、人間にとって先生は、かけがえのない一生の宝物みたいなものだなと思った。なぜかというと、高校時代をあまり話ていなかった母が、あんなにしゃべっているところを初めて見たし、話している母が、すごく楽しそうだったからだった。私は、今の先生も観察して、どんな先生か見て、どんなサプライズがあっているか考えてみたいなっと思った。そのために、先生に積極的に話て行きたいなと思った。いつまでも先生を大切にしたいと思った。
「トイレにいっといれ」
4月の森リン大賞と上位入賞者(中1の部266人中)
いつから世の中が矛盾を(感)清書
あかるら
私は矛盾は良いと思う。その理由は二つある。
第一に、矛盾は心の余裕に繋がるからだ。論理的な一貫性を追い求めすぎてしまうと、視野の狭い人間になってしまう。これは、日本の歴史からも読み取ることができる。今でも続いている日本文化の多くは、平安時代頃から始まり、そして栄えていった。かな文字を用いた和歌や蹴鞠、正月や七夕のような年中行事は今でも学校や家などで学び、触れる機会が多い。そんな平安時代は貴族の「遊び」が中心、つまり一貫性や規則正しさのような「論理」はあまり重要視されていない時代である。確かに遊びにもルールはあるが、ほんの少しの間違いやズレが起こったとしてもすぐに否定せず、皆おおらかな気持ちで事態を受け止めることができただろう。このような行き過ぎた論理を求めることの少ない環境が心の余裕に繋がった。こういった心の有り様が、愛され、親しまれる日本の文化となり、今日でも引き継がれているのだと思う。いつの時代も論理性が社会の規則であり基盤となっていたことに変わりはない。しかし、良い矛盾という論理とは反対の物事によって今までの歴史や文明の開化だけでなく、私達の生活も支えられているのだと考える。
第二に、良い矛盾は「自分ならでは」に通じるからだ。私は以前、押し花で葉書を装飾するというイベントに参加したことがある。しかし、その作成中に花の一つが私の置きたいと思っていたところではない場所に張り付き破れてしまったため、デザインの一部を変更しなければならなくなった。自分の思い通りには進まなかったが、何より出来上がった作品に対してより「自分だけの葉書」という特別感がわいた。自分だけの小さなズレは誰にも真似することができない。良い矛盾は自分のオリジナリティーである。「多少のズレや失敗も許さない」と行き過ぎた論理を追求すればするほど、最終的には皆が同じ考えや感じ方になってしまうだろう。
確かに論理という規則のある考え方は相手に誤解を与えない。また「自分」を大切にするためには論理と良い矛盾とのバランスが大切だとも考えられる。「できあがった規則をなんとか守ろうとするよりも、実態に合わせて規則を変えていくことが、真に規則を生かす道である」という言葉がある。このように良い矛盾を意識し、それを形にしたものは、きっと未来にも受け継がれていくだろう。このことから、私は矛盾は良いと考える。
4月の森リン大賞と上位入賞者(中2の部265人中)
言葉の移り変わり
こたつ
私は近頃、言葉の使い方がおかしくなっていることに突っかかることがある。特に最近だとクラスメイトが「なにげ面白かった!」と言っていたことだ。本当は。なにげなくと言いたかったのだろう。これは典型的な誤った言葉の使い方だ。だが、時間の流れと共に、若者の間で流行り始め、今ではなにげと言う言葉はなにげなくと言う言葉だとして認められている。
人によってこのような誤用が正しくなるのに、抵抗があったり無いと思う。私は抵抗がそこまで無い。それは、自分自身がまだ13才だからだと言うことも理由に含まれるだろう。私は他力本願という言葉を使ったことがある。だが、この言葉は本来仏教用語なのだ。そのため、本来はキリスト教の人やイスラム教の人、ヒンドゥー教、その他諸々の宗教を信じている人に対して使うのは非常によろしくない。だが、現代の日本では、宗教的な観点から大きくずれて、ほかの人に頼りきりという意味で定着している。
それは、その使い方をする人が大多数を占めているということだ。なので、言葉の意味は時代と共に変わっていく事は、人間の社会的には仕方のないことなのである。
しかし、反対に抵抗がある人がいるのもわかる。なぜなら今まで保守的であった言葉を変えてしまうのは中々に勇気がいるからだ。たとえば、雰囲気ということばは、明治時代初期には、なんと「地球の周りの大気」という意味だったのだ。これは、今の「周りの感じ」という意味とはおおきくことなっているため、驚く人も多いだろう。
このように言葉の意味を変えてしまうと、将来大変なことになってしまうだろう。例えば、地中に核廃棄物などを破棄するときだ。先程の雰囲気といった例のように、今の言語と未来の言語が大きく異なっている事がある事が理解できたと思う。なぜ困るかというと、核廃棄物は物によっては影響が消えるまでとてつもない時間が必要なものもある。そんな長い間、日本語の言葉が少しずつ変わっていったとしよう。すると「絶対にいけない」が現代の「そこそこによくない」程度に置き換えられているかもしれない。未来人がもし埋めた場所を掘り返してしまえば被害は大変なことになってしまうだろう。これ以外にも現在の病原体等が未来に伝わらないと困ったこと になるだろう。
どちらの意見にも賛同できる部分が多くある。けれども、最も大切なのは言葉の意味が伝わるかどうかなのでは無いだろうか。出口の無いトンネルはないという名言があるように、一見当たり前のことでも意外と見落としがちなことは多い。言葉が必要なのはコミュニケーションをとる必要があるからだ。ならば、言葉はみんなが使いやすいようにしなければならない。そのため、私はバランスをとった言葉の矯正が必要だと考えている。ある程度の柔軟性を持ちつつもしっかりと変えてよいという線引きをしっかりとすることによって、私たちは「言葉」というものをより良い状態にして未来につなげていくことができるだろう。
4月の森リン大賞と上位入賞者(中3の部166人中)
時間に操られる自分
なおや
紀元前3000年前から時計の歴史は始まる。この日時計が発明されてから、人類は時間とともに生きている。今、現代人は時間に追い立てられるように生活しているが自然と調和している人たちは、時間を意識することなく生活している。また、今現在この世では、水原通訳が保釈金約400万円で保釈されるなど、金で物事は解決できる方向にある。だが金で買える幸せには限界がある。私は時間にとらわれない生き方をしたい。
第一の方法としてあまり時計を見ないように常に心がけることだ。僕はあまり時間に厳格ではない。そのため、塾帰りの電車で予定の時刻に間に合わなくなってしまうことが度々ある。実際少し、時計を確認していなかった自分を恨んでしまうが過去に戻ることは僕でさえもできない芸当である。しかし、次の電車で素敵な女性が乗っていて、そのとなりに座ることができれば、素敵なひとときを10分間過ごせる。そして、その日は必ずハッピーな夢を見られる。確かに時計を見ずに生活するのは現代人にとっては無理な話かもしれない。だが、偶然を装い、一期一会の素敵な出会いを大切にしたい。また、家でも僕は時計を一切見ない。そのため、夜は寝るのが遅くなってしまうのだが比較的まったりと過ごせる。反対に朝は友達との集合時間に間に合わなくなり、朝ごはんを残してしまうこともたまにある。その都度、母を苛立たせる。時計を見ない生活スタイルを取り入れれば、時間を意識する必要がなくなり、何かやらなくてはいけないことなど、自分に降りかかる問題に慎重に対応する事ができるだろう。
第二の方法として時間に対してもう少しルーズに接していくことだ。僕の祖父は田舎で農業を営んでいるが時間を意識する概念がないように思える。朝、6時に起きるのではなく朝頃に起き、12時に昼食を食べるのではなく昼頃に食べ、夕方頃に仕事を引き上げて一日が終わるのだ。彼ら、田舎者は素肌で自身の時間基準を作っているのだ。すべての国が時間にルーズだという訳では無いがよくインドやイタリアは約束の時間を守らないということで有名だと思う。特にインドは人口が多いのもあり、電車が遅れ、「時間通りにいかないのが当たり前」という感覚を持つ人が多いのだそうだ。地中海に住むとある老人は手帳に日記を記しているのだそうだが、その手帳は年数が10年前のものだったそうだ。彼にとって、グリニッジ標準時は意義を持たず、彼自身が時間の基準なのだろう。このことから、様々な解釈ができると思うのだが、この老人の時間を超越した考え方に深く感動してしまった。海外の人は良い意味でも悪い意味でも時間にルーズなのだ。アメリカの偉人、ベンジャミン・フランクリンは卓越した外交交渉能力を備えた政治家でもあり、雷の中に電気があるのを発見した科学者でもある。しかし、彼はこの偉大な生涯に似合わず、仕事に関して会食のとき以外はスケジュール通りにこなすことは一切なかったようだ。僕はベンジャミン・フランクリンのように、社会に調和しながら生きていきたい。
確かに、時間とともに生きることは、ことをスムーズに進ませたり、時間に対して「分」という基準が定まっていると相手との誤解が減る。しかし、「悪書を読まないことは、良書を読むための最初の条件である。」というように、人は時間を的確に読むことで本来の自分の生き方を忘れてしまっているのではないだろうか。今、わたしたちの住む世界では至るとこに時計が電子機器に内蔵されている。私達はテレビを見ていると隅に表示されている時計から視線を感じてしまってならない。この社会で分単位の世界から秒単位の世界になった時、リラックスとはなんなんだろうと疑問を問うようになってしまう未来が果たしてきてしまうのではないだろうか。したがって僕は時間に支配されることなく自分自身が主体となってこの世界を堪能していきたい
4月の森リン大賞と上位入賞者(高1高2高3社の部426人中)
ゴミの見分け方
あいめえ
部屋の片付けをしている時、調子に乗って家にあるものをポイポイ捨ててしまい後悔する、という経験を多くの人がしたことがあるだろう。いい機会だからとよく考えずに、まだ使う教科書をゴミ袋にいれてしまった時にはひやりとした。これは物に限らず、意見や提案、考えにも通じることだと思う。後で後悔しないためにも、安易に何かをゴミとみなす、つまり必要のないものとして排除するべきではない。
第一の方法としては、少し時間をおいてみることだ。その時はゴミだと思っていたものが、後になってからとても貴重なものになることはよくあることだ。昔集めていたアイカツというゲームのカードが四千円近くで売られているのにはとても驚いた。もちろんもう捨ててしまっているのだが。そのゲームのカードと同じように、私は勉強は必要のないものだと思っている時があったのだ。中学受験を終えて、やっと遊べるようになった私は一日中SNSをみたり、ゲームをしたりと、全く勉強をせずにずっと遊んでいた。そのまま中学2年生になり、中学受験の時の知識でなんとか乗り切っていた勉強がさっぱりわからなくなってしまった。特に将来の夢も決まっておらず、また、中高一貫校だったこともあり「勉強は今の自分には必要のないものだ」と勉強をゴミのように生活から排除してしまっていたのだろう。しかし、高校生になった今、勉強はとても大切なものであり、勉強をせずに何をするのだろうかという考えに変わっている。後少し、気づくのが遅ければ取り返しのつかないことになっていたかもしれない。いや、中学二年間の勉強が抜けているというのは若干手遅れなのかもしれない。このように、時間が経つことによって、当時は正しいとおもっていた考え方が変わることがある。すぐに決めるのではなく、時間を置いてから考え直すことは大切だ。
第二の方法としては、逆の考えを聞くことだ。私はゴミを排除するのは良くない、という話をしているが、世の中には4Rという「リユース・リデュース・リサイクル」という3Rに「リフューズ」という不要なものを買わない・断るという意味の言葉が追加された言葉がある。そもそも排除するものを作らせないといった考え方だ。このように、自分だけの考えでなく、周りの考えも聞くことで、安易に必要のないものだと排除することが少なくなるのではないか。私が「勉強なんてどうでもいい」と先生の前で言い切った中学一年生の冬、私の周りには勉強を頑張っている人は沢山いた。彼ら、彼女らに話を聞いていれば私はもう少しまともに勉強をしていたのかもしれない。
確かに、必要のないものを潔く捨ててしまうことも大切だ。失敗を引きずることや、なによりテスト期間中の遊びたい欲は即座に切り捨てる必要がある。しかし、捨ててしまうことによって後悔をすることもある。ゴミ袋はいわば鉱山であり、石ころが出てくることもあれば金がでてくることもある。熟考した上でゴミかどうかを見極めるべきだ。
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