毎月の森リン大賞
森リンの丘
9月の森リン大賞と上位入賞者(小1の部31人中)
9月の森リン大賞と上位入賞者(小2の部86人中)
きれいだったランタンフェスティバル(清書)
けいけい
9月14日の夜8時に、ぼくのマンションでパーティーがあったからママといきました。ぼくはゴールデンリトリバーをかっている、マーティンからもらった、うさぎがたのランタンをもっていきました。うさぎがたのランタンは赤、白とみどり色でした。最初は、わなげを見ました。だけどやりたくなかったからです。なぜかというとアヒルの首がうごいているわなげだったので、きもちわるかったからです。次、学校の友達のAくんとZくんに会いました。Zくんは、あんまりパーティーに、こないからめずらしいな、と思いました。マジックショーがあったから見ました。ぼくはマジックが好きなので、ひもで手と足をガチガチにむすんで布きれを上にのせいぇ1、2、3、とかぞえたら、ひもがきれていたからすごいと思いました。次におじさんがきて中国のコマを回していました。また、お皿をてつのぼうの上にのせて、お皿を、回してさいごはあごの上にぼうをのせて、手なしでバランスをとっていたのがすごいと思いました。さいごプラスティックでできたはづの花におねがいごとを書いて池にうかべました。ぼくのおねがいごとはお金もちになりたいでした。うかべたあとに、にじ色に光りプカプカうかんでいました。今度はマーティンに会ったとき、ありがとうといいたいです。ママにぼくが、
「かえったら1びょうでねていい?」とききました。
「いいよ。」といわれました。そしてほんとうに1びょうでねるとおもいました。
9月の森リン大賞と上位入賞者(小3の部148人中)
美味しいラーメン_清書
みきひさ
「美味しそうだなぁ~。」
夏休みにお母さんとラーメンを作りました。まず、半熟卵を作りました。卵をおたまでコトンとお湯に八分沈めて、その間に、もやしと肉をジューと炒めました。次に麺を三分茹でました。パリパリポロっと卵の殻をむいて、半分に切ると、トロトロ半熟卵が出来ました。そして、麺を器に入れて、スープを入れました。最後に、もやしとお肉と海苔をトッピングしました。これでラーメンの完成です。ラーメンをパクパクと食べました。とても美味しかったです。ラーメンはまるでケーキみたいな美味しさでした。もし、ラーメン屋だったらたくさん売れると思います。なぜかというと、僕が作ったラーメンはとても美味しかったからです。
ラーメンを作っていて苦労したことが四つあります。一つ目は、もやしをお皿に入れるときに飛び出したことです。二つ目はお肉を炒めるときにお母さんが急に火を強めてびっくりしたことです。三つ目は卵を冷やしていた水が温かくなっていたのに気付くのが遅かったことです。四つ目は麺が器から飛び出したことです。上手に出来たことは、二つあります。意外に半熟卵が綺麗に出来ました。なので、すごっと思いました。二つ目は美味しくできたことです。僕もお母さんも
「くんくんいい匂い。」
と言いました。僕は、また作りたいな~と思いました。
お母さんは小学生の頃、カレーを作ったことがあるそうです。カレーを作る時のポイントは野菜を炒める時に塩が入っているバターを使っていて、野菜に深みやコクが出てくる気がしていたそうです。でも、バターを入れすぎたり、ボーっとしていると、野菜がまるコゲになって食べられなくなるので、いつもドキドキしながら作っていたそうです。僕はお母さんが作るカレーは大変だなと思いました。なぜなら、バターを野菜と一緒に炒めなければいけないからです。
人にとってラーメンはとても美味しく、みんなに愛されていると思いました。次作る時にはラーメンが飛び出さないようにしたいです。ラーメンが、「あ~メンがとび出した」とならないように。
9月の森リン大賞と上位入賞者(小4の部204人中)
一番好きなのは寿司 (清書)
すみれ
「うわ!おいしい。」
あまりのおいしさに感動してしまい、思わず口に出してしまいました。
私は、回転寿司へ行ったとき初めてはまちとぶりを食べました。いつも回転寿司へ行ったときは、私が一番大好物なサーモンや、エビや、マグロを頼みます。でもあまりにもぶりがおいしそうだったので、頼んでみたらとてもおいしかったです。
よくお店に売っている刺身にもたまにぶりが入っているものがありますが、回転寿司のメニューではぶりがあまりありません。前に、食べて感動したぶりをもう一度食べたいと思ったけど、メニューにはのっていなくて「ガーン。」と頭に雷が落ちたようにびっくりしました。
とてもぶりとはまちが美味しかったのは、高級の魚ではないのかと考えました。
ぶりがとれるところは、長崎県で、10775トン、北海道は9574トン、千葉県で1387トンとれ、主な収穫値は、鹿児島県で37260トン、愛媛県は37091トン大分県で26521トンが収穫されるそうです。東京の外側でとれる魚なのだと感じて輸入できるのは少ないのか。と思ったので回転寿司にあまりぶりがないことは、遠いところでぶりが収穫されるということが分かり、もう少し食べたかったと思いました。
また、まちとぶりを両方食べた時、ぶりと、はまちの色や味が似ているので調べてみるとぶりとはまちは同じ魚だそうです。ぶりの前がはまちで、はまちがもっと成長するとぶりになるそうです。
家族に好きな食べ物を聞いてみました。
お母さんはえびが入っている料理が好きだそうです。小さいころにエビが入った鍋を食べたらしくなべにえびのエキスが浮いていたので、それがおいしかったらしくそれからえびの料理が好きになったそうです。
兄は豚骨ラーメンが好きらしく、福岡で食べた豚骨ラーメンのしるにだしがとても入っていたから美味しかったそうです。
お父さんは、ジャガイモが入っている料理が好きらしいです。理由はじゃがいもがほくほくしているからと言っていて、肉じゃがと豚汁が好きだそうです。
妹はチーズケーキが好きだそうです。たぶん8月ぐらいに家で作ったチーズケーキが美味しかったから好きになったのだと思います。
家族が好きな食べ物は全部私も好きですが、自分の大好物なものにはやっぱりついていって、ラーメンや、豚汁や、エビ料理や、チーズケーキもみんな好きだけど自分が大好物な寿司が一番おいしいのは寿司だなぁ。と思いました。
9月の森リン大賞と上位入賞者(小5の部240人中)
考え方の違いが生み出す差
あこりお
イギリス人は犬を躾けることが上手である。これは、人間と動物のお互いの位置付けが、イギリスと日本では全く異なることから出発していると思う。日本人は、犬、猫そして馬のような家畜を人間に従属する存在とは見なしていない。それに比べてイギリス人は、家畜とは人間が完全に支配すべき存在だと考えている。
私はよく、近所の犬が飼い主さんと散歩しているのを見る。まるで自分の子供のように可愛がられているのを見ると、見ているこちらまで嬉しくなってしまうほど、可愛がられていることが伝わってくる。私の家では犬は飼っていないが、たまに日本トカゲが出てくることがある。最初は
「ギャー。」
と驚いていたものの、だんだん慣れてきて、じっくり観察できるようになった。すると、目が丸くてぴかっとひかっているのがだんだん可愛く見えてきたのだ。最近ではトカゲを見つけたら、
「トカゲが植木鉢の下にいたよ。」
「いいなぁ。私も見たかった。」
というように、可愛がるようになった。これらの経験をしてから、思うようになったことがある。なぜ、人間は動物を可愛がるのか、ということである。この問いに対して私は、可愛がるということは、人間と動物が同等な関係にあると認識しているからこそできる行為だと考えている。
日本で最初に犬が家畜として扱われていたのは、なんと縄文時代だったそうだ。縄文時代の冬には、犬を家の中に入れてあげて、温めてあげたそうだ。その頃人間は、狩りを手伝ってもらうために犬を飼っていたと考えられている。そして、明治時代の頃から犬が「ペット」として扱われ始めたらしい。このことから、日本人は犬と昔から接してきたことがわかると思う。最初、狩りを手伝ってもらうのであれば、かなり手厳しく躾けていたと思う。そこから時間がたって、だんだんお互いに慣れていくことによって距離が縮まっていき、犬の躾が甘くなっていることにつながっているのではないだろうか。
イギリスでは、命を預かるということは最後まで面倒を見ることであって、一方、日本では犬の命を重要視しているということがわかった。私は、イギリス人の考え方と日本人の考え方の差には、それぞれの歴史が関係していると考える。なぜなら、イギリス人はキリスト教を信じている人が多い。キリスト教には神様が人間のために他の生物を作ったという考えが記されていて、日本では、人間もも動物も、みんな同等の関係だという考えをもっている人が多いからだ。これから、動物の一つ一つの命を大切にしていこうと思う。考え方の違いから生まれる差は、とても大きいものだということがわかった。
9月の森リン大賞と上位入賞者(小6の部251人中)
生きていく上で
あえわた
噴水は役に立たないところに意味がある。日本では水不足になると噴水を停めろと言う議論が出るが、それは、噴水の役割を否定するものだ。そして、噴水の水はそこを循環し続けているので水不足になっても停める必要はない。役に立たないものを出現させることによって、国民は文化的衝撃を受け経済活動から文化活動へいそしむべく、都市とその住民に方向転換を促す為に必要であろう。なので、噴水は噴水らしく水を噴き上げていれば良いのである。この文章を読んで、あえて役に立たないものを出現させ、国民に文化的衝撃を受けさせると言うのは凄い考えだなと思った。
僕の家にも僕にとっては生きていく上で必要ないものがある。それは何かというと観葉植物だ。僕の家に観葉植物は四つくらいある。なぜ、観葉植物が僕にとって必要ないかというと、毎日水やりもしないといけないし、枯れてしまった葉っぱは切らないといけないし手入れがめんどくさいから必要ないと思っている。おまけに、植物の割には意外とスペースを取るのも必要ないと思うポイントだ。観葉植物がなければ、そこのスペースに棚などの家具なども置ける。だから必要ないと思う。しかし、観葉植物を見ることで多分、母や父が毎日仕事を頑張れるのかも知れない。なので、僕からしたら必要らないけど、父や母からしたら
まるで食べ物と同じくらい生活に欠かせないんじゃないかと思った。観葉植物はいらないと僕は言っているけれど僕も観葉植物より必要ないトレーディングカードを集めていたことがあった。
(笑)このことから、その人にとって必要じゃなくても他の人からしたら生活の欠かせないくらい必要なものもあると思った。
父にも話を聞いてみた。僕の父もそんなに必要ないだろと言う様なものがある。それは、仕事用の靴とスニーカーだ。仕事用の靴だけで約二十足、スニーカーだけで約十足はある。父は仕事用の靴は毎回違うのを履いて、全体的に使っていると言っていたが実際には毎回ほとんど同じものを履いていると僕は思う。それはスニーカーも同じで、毎回十足のうちの三足くらいしか使っていないと僕は思う。そして残りの七足は二階の父の部屋でコレクションしてあると聞いた。父は今の仕事を始めて二十一年ぐらい働いているが仕事を始めて最初に買った仕事用の靴もとってあるそうで、まだ一度も靴は捨てたことが無いそうだ。もし僕だったらサイズが合わなくなったり、昔の靴だったらすぐに捨ててしまうと思う。しかし、靴のコレクションが父の生きがいになっているのなら僕は別に良いと思う。なぜなら僕も、自分の好きなトレーディングカードを集めているからだ。そしてそれが僕の生きがいで、毎日頑張れるから別の良いと思う。このことから、蓼食う虫も好き好きという諺があるように人それぞれ好きなものが違うと思った。
確かに、この世の中になくても良いものは山ほどある。しかし、それがあるから、生きていける人だっていると思う。
人間にとって生きていく上で必要ないものとは、どこかで誰かのために役立っているものだ。これから、生きていく上で必要のないものを大切に生きて行きたい。
9月の森リン大賞と上位入賞者(中1の部276人中)
制限から生まれる可能性(清書)
あかるら
私は二十年ほど前から、人間は自己家畜化していると述べ続けている。これは、ヒトを生物の一種と見た場合、人間自身が作った社会システムに依存して暮らしている点からである。人間と鎖につながれたような飼育動物の生活はほとんど変わらない。その違いは社会的・文化的な面や、鎖が具体物かどうかである。飼育というと餌付けからだが、人間は社会システムに参加することで食物を供給されている。つまり社会的に飼育されているのだ。私は、自己家畜化は必要だと考える。この理由は2つある。
第一に、自分の力を持続することができるからだ。社会システムと自分の行動を比べ見つめることで自分を奮い立たせ、刺激することができる。私は部活動に参加していない。そのため部活動をしている友達よりも早く家に帰宅することができるが、家にいるとその安心感からつい学校での疲れや怠惰な感情が出てしまうことがある。しかし学校に残って活動に励んでいる友達の様子を想像すると自然と気が引き締まる。私の年齢や学生という立場からは一般的に社会システム上「部活動にあてられた時間」、つまりある物事に集中して取り組む時間だと言える。だからこそ場所は違えども、自分のやるべきことに真剣に取り組もうと思えるのである。この気持ちが勉強や課題に対する目的意識に繋がっている。社会システムという人間の基盤が他者との比較、そして自分の活力の維持向上に大きな役割を果たすのだ。
第二に社会のルールを守ることが本当の自由に繋がるからだ。規則を守ることと自由は別々のものと捉えられることが多いが、この二つには相互関係がある。私の通っている中学校は自由で、自分の学習や研究、そして容姿に関しても自分で決定することができる。しかしその選択は自分で責任を持って決めるのだ。私には入学後に先生から教わった印象に残っている言葉がある。それは「自由とは制限があるからこそできるものだ」、「ルールよりマナー」という言葉だ。この話を聞く前の私は規制などに囚われず自分のしたいように行動することが「自由」だと考えていた。しかしある日、この考えが大きな間違いだったことに改めて気が付くきっかけとなる出来事があった。それは集会での生徒の話だった。話の中でその生徒はロッカーの鍵を付けることやゴミの分別などの校内環境について述べ、最後に
「私達が意識して取り組んでいかないとこの自由な校風を守れません」
と言ったのだ。私はこの言葉に衝撃を受けたと同時に自分の間違いに気付かされた。私の考えでは自由ではなくむしろ新たな制限をかけることに繋がる。私の学校のマナーやモラルを守ることは当たり前のことであり、また他者への思いやりである。これは社会的にも同じことが言えるだろう。社会のルール、つまり法律があるからこそ私達はその中で安全に快適に、そして自由に暮らすことができるのだ。
確かに時には、社会のルールから解放され自分の今やりたいものに意識を向けることも必要である。しかし「脱皮できない蛇は滅びる」という言葉がある。自分の思いのままに振る舞うという皮から出ることが本物の成長や自由を手に入れる第一歩になるのだ。私はこれからも社会システムの中で自分の力を最大限発揮し、伸び伸びと生きていきたい。このことから自己家畜化は必要だと私は考える。
9月の森リン大賞と上位入賞者(中2の部272人中)
文化ということを(感)
あきえよ
文化ということを、ここでは日常の生活にあらわれている面から考えていって、ヨーロッパと日本のそれを比べてみると、最初に思い浮かぶのは、ヨーロッパの長所も短所も、一般の人々における市民生活の堅固さに関係するのであった。日本の生活意識においては、このことは、一部の人たちに概念的にうけとられているほかは、いまなお全く欠けているのである。
他者の意見に流されず、揺るがない自己を持つことは大切だ。自分で判断することは、学校に限らず社会に出ても求められる。だから集団生活に慣れすぎず、単独で行動する時間も持つべきだと思う。また、日本人の特性として、集団や他者の意見に流される人が多い。だからこそ私は、意識して強い意志を持つことを心掛けることは大切だと考える。私は最近一人で行動する機会が多く、私自身はそれについていいことだと考えている。その理由は、誰かの意見に流されなくて済むからである。また、私は小学生高学年の頃、よく三人のグループで行動する機会が多かった。その際、学年で行われたお楽しみ会で出し物をするときに何をしようか考えなければいけなかったのだが、他の二人が考えた「ショートコント」をすることに決まった。台本も書かないといけなかったのだが、これも私以外の二人が書いてくれて、それ披露することになった。どんどん事が進んでいく中で私はほぼ何もしなかったのだが、そのときは受験勉強の時と重なっていたため、自分はありがたかった。だから、他人の意見を気にせずに一人で行動できることはいいと感じた。
しかし、相手に配慮しながら集団の中で生きていくことも大切だ。自分の考えのまま行動していると、他人から見れば変だと思うことも普通に行ってしまう場合がある。そのため集団で行動して、どこまでの行為が許容範囲なのかを学ぶべきだと思う。また、無理に自分の意見を言わず、相手の意見に合わせる方が、日本の世間からしたらよくとらえられることも多い。だから、小さいころからそういった行為に慣れていた方が良いと考える。例えば、私の学校にはカフェテリアがあり、そこと教室でお昼ご飯を食べることが出来る。集団で行動していると、よくどちらで食べるかで話し合う機会があるのだが、だいたいは多数決で決まることが多い。しかしこの前、私も賛同していた「教室でご飯を食べる」ので多数決の結果で決まったのに、友達の一人がどうしても「カフェテリアで食べたい」というので結局はカフェテリアで食べることになった。この、みんなの意見で決まったのに一人の意見によってそれが返られてしまったことに対して怒りを覚えた。しかし後から考えてみると一人で行動しているだけではできない、他人の意見に合わせる、ということをするのも大切だと感じたので良かった。
確かに、個人で揺るがない自己を持つこと、集団の中で生きていくことは両方とも大切である。しかし「私たちの幸福が、他の人びとの不幸に支えられているのであってはならない。」という言葉もあるように、一番大切なことは、日本人である私たちが現状に対応しながら、新しい生き方を目指していくことである。明治維新を経て第二次世界大戦後、私たちが民主主義を選んでから今年で80年である。私たちはだいぶ「個」の感覚も根付いてきたが、周囲に配慮しながら手を携えられる強みもある。だから私は、日本人は新しい社会を目指していけると思っている。周りには国民が不自由な独裁国家も多い。しかし自由な私たちは、自分たちで進む道を模索しながら新しい世界を目指していけると確信している。
9月の森リン大賞と上位入賞者(中3の部169人中)
選択科目とカウンセラー
あえにな
自分で判断し決断し決行することは大切であるが、人間は他人や集団の意見に流されやすく、他人依存になりやすい。それは、楽だからである。特に最近の教育状況はこのような人間の傾向を助長しているといえる。自分でテーマを見つけて行動することに慣れておらず、具体的な指示がないと行動できないという状況になっているのだ。
一方では、自分で判断し、主体的に行動することは大切だと考える。他人や集団の意見に流されず、自分という独立した意見を持つことは、自分の人生を選択する上で必要不可欠なものである。例えば私が通っているカナダの高校には、選択科目がある。これは、生徒一人ひとりが自分が今何をしたいのか、そして将来何をしたいのかを自分自身の中で明確にするためのものに違いない。というのも、選択科目には音楽であったり現代アートであったり服飾であったり栄養学であったりプログラミングであったりと、幅広いジャンルの科目がたくさん用意されているのだ。いわば、選んだ科目によって自分の将来のキャリアが決まっていくとも言えるだろう。つまり、自分で主体的に興味と将来の進路を考えて科目を選択することは、自分の人生を選択することにおいて大切であると私は考える。確かに、自分で一から考えて行動することは、自身が大きな責任を負うことになるため不安を感じ、尻込みしやすい。しかし、その不安を乗り越えてでも、自分の人生においての判断を主体的に行うことは大切だと考える。
他方では、他人の意見を取り入れることも大切だと考える。なぜならば、私は自分だけではなく他人の意見にも耳を傾け、取り入れることで、自分の選択をより良くすることができると考えるからだ。例えば、カナダなど海外の学校にはカウンセラーと呼ばれる先生方がいることが多い。私が通っている高校でも、カウンセラーが4人ほどいて、いつでも気軽に進路などを相談することができる。私が選択科目について相談をした時、カウンセラーの先生はとても親身になって相談に乗ってくれた。私のやりたいこと、将来の進路、そして心配ごとなどを丁寧に理解し、ではこうするのはどうか、と私には考えつかなかったアイデアを提示してくれたのだ。カウンセラーの人に相談し、アドバイスに素直に耳を傾けることで、私は悩みが解決した。私はまるで霧が晴れたような気持ちになり、相談室を出る頃にはスキップをしたくなるほど気持ちが軽くなっていた。このように、私はカウンセラーに相談し、意見を取り入れたことで将来のための選択をより良いものにすることが出来た。それゆえに、他人の意見を素直に取り入れることで自分自身の選択を更に良いものにすることができることもある、と私は考える。
確かに自分の判断で物事を進めていくことも他人の意見を取り入れながらやっていくこともどちらも大切だ。しかし、いちばん大切なことは、『したい人、10000人。始める人、100人。続ける人、1人。』という名言があるように、一度決めたことを継続することである。何かを始めることは簡単である。何かをしたい、と思うことは更に簡単である。しかし、一度始めたことを続けることはとても難しい。だから、自分で選択したことを活かし、続けることができるように努力することが重要であると私は考える。
9月の森リン大賞と上位入賞者(高1高2高3社の部426人中)
清書
さゆ
近代社会では、人間は法律に違反しないかぎり何をしようと自由だという建前で運営されている。すると、そういう社会で自分が満足した財産や地位を持てないのは、自分の努力が足りないか、社会が悪いかということになってくる。誰もが自由になる半面、分を知ることが難しくなり、顔の見えない他人とを比較して、限度のない自己実現を迫られる程度が増したことが問題である。
今後の対策として第一に、自己実現にとらわれすぎないことだ。今までは自分の所属している組織の中でのみ競争することができた。しかし、昨今では、大衆社会に触れ始めた。インターネットが普及して、今までより他人と近づくことができる時代になった。狭い組織の中で満足できていたのに、より上を目にすることができるようになり、目指したいと思えるようになってしまった。だが、上には上がいて実現しようとするならば、それは不可能なことだろう。
私も理想を高く持つことはよくある。他人の良いところが気軽に見ることができるようになったため、知らなくてもいいことも目に入るようになった。やはり羨ましく思い、そうなりたいと思うことがよくある。しかし、人はみな異なるため、その人に近づくことはできても、その人にはなれないのだ。その人はその人、自分は自分とわけて考えることが大事だと考える。
今後の対策として第二に、際限のない自己実現に追われる社会から、自己表現を奨励する社会へ転換していくことである。表現は実現と違って、財や地位の量的な尺度で計られず、魅力を理解する親しい他人の目があれば足りる。それは閉鎖的な階層組織ではなく、相互に顔の見える柔らかな社交の集団を作り、人はその小世界で認められることで、「何者か」であることができる。今の時代、自己実現をする場が少なく感じる。逆に、自己表現をすることでよく思わない人がいるのではないかと考える人が多いだろう。そうなってしまっていることがまず問題である。大人数の場で自己表現するのが難しい場合は、少人数の場で自己表現するのでも良い。自己を表現して、認めてもらう経験をしたらそれが自信に繋がり、より良い人生が築いていけるだろう。また、アサーションという考え方がある。アサーションとは、相手も自分も大切にした自己実現のことである。お互い意見が違うことを前提にして、相手を尊重しながら、けれども安易に妥協せず互いに意見を出し合って、納得のいく結論を出していくプロセスを大切にするのだ。この考えが広く伝われば、周りの目を気にしすぎて、自分の意見が言えないということが減るだろう。自分だけではなく相手も配慮するというのがお互いに正直に向き合うことができ、良い人間関係を築くことに繋がるので良いことだ。
確かに、自己実現していくことは自分の成長に繋がることなので、大切である。しかし、それにとらわれすぎてしまい、顔の見えない他人とも比較することで、限度のない自己実現を迫られる程度が今よりも増すことは問題である。自己実現にとらわれすぎるのではなく、人はそれぞれ異なった魅力があるので、みんなが自己表現することができたら、今より良い社会になるだろう。
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