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 あえたやさんの読書記録
  あえたやさんの読書記録
 あえたやさんの感想
イギリス人は、犬を躾けることが上手である。来る犬来る犬が実に見事と言う他ないほどぎょうぎがよい。日本人の犬は、こちらが恥ずかしくなるほどめちゃめちゃである。日本人にとって犬はそれ自体自由な自律的な存在なのである。イギリス人は家畜とは人間が完全に支配すべき、それ自身は自律性を持たない存在と考えている。一般人は動物観、生命観をはっきり意識しているわけではない。人々を無意識に動かしている基本的な価値体系の枠組みというものは、実は深くかくれているのである。
母が子供の頃、犬を飼ったことがあるそうだ。母の妹が、家の裏の公民館で捨てられていた子犬3匹のうち1匹だけを3ヶ月飼っていました。
3ヶ月後に、ダスキンの人が犬好きで、家で飼っていた犬を、引き取ってくれた。
母は、怖かったので、犬には触らなかったけれど、後ろをついてきて可愛かったそうです、お世話をしていたのは、母の妹で、犬に餌をあげていたそうです。
日本の南極観測隊の、タロとジロのことについて、調べてみた。
1956年(昭和31年)11月、総勢53名の第1次南極観測隊隊員がタロ、ジロを含む22頭の樺太犬と共に東京湾より南極観測船「宗谷」で南極へ出発。宗谷には暑さに弱い樺太犬たちのために、赤道越えのための冷房室が特別に用意された。隊員のうち11名が第1次越冬隊として選抜され、この中で菊池徹と最年少の北村泰一が犬係(北村自身の記述によれば、「犬かかり」)を任じられる。昭和基地に到着すると、病気などでそのまま帰国する3頭を除いた19頭の犬たちは、1957年の第1次越冬隊において犬ぞり引きなどに使役された。越冬中に2頭が病死、1頭が行方不明となった。また雌のシロ子はジロなどとの間に8頭の子を産んだ。
1957年(昭和32年)12月、宗谷が南極付近に到着した。昭和基地にいる第1次隊員と入れ替わって越冬するため、宗谷は第2次越冬隊を乗せていた。しかし、近年稀にみる悪天候にみまわれ、宗谷は昭和基地には到着できなかった。
1958年(昭和33年)2月6日、46日ぶりに外洋への脱出に成功し、7日、アメリカ海軍のウィンド級砕氷艦「バートン・アイランド」号と会合。支援を受けて8日、密群氷に再突入した。11日、6便に分かれて1次越冬隊11名、雄の三毛猫たけし、カナリア2羽が宗谷に帰船。12日、2次隊隊員3名が先遣隊として昭和基地に到着。13日、天候の悪化により空輸が困難となった。
14日、天候はますます悪化し、バ号自体の氷海脱出も危うくなった。午前10時、永田隊長から、一旦外洋に出てから天候が回復しだい再進入する計画なので3名は宗谷に戻るように指示したが、3名は、第1次隊が残した食料と樺太犬がいるので再進入の計画があるならばこのまま越冬準備を続けたい、万一再進入できなくても3名での越冬も十分可能であることを強く訴えた。
正午、隊長からは次のような最後通告が戻ってきた。「3名を収容して外洋に出るのはバ号艦長の至上命令であり、気象的にも空輸の可能性は後1便しかない。越冬には樺太犬が必要なので野犬化したり、共食いしたりしないよう、必ず鎖につないだまま帰船してほしい」
バ号艦長の命令では従うしかなかった3人は、南極生まれの子犬8頭とその母犬のシロ子はなんとしても連れ帰ることにした。15頭の犬の食料2か月分を分配した後、迎えに来た昭和号(DH-2)に子犬8頭とシロ子と共に昭和号に乗り込んだが、荷重超過で機は離陸できなかった。不時着用の燃料と食料を降ろすという森松整備士の機転によって帰船することができたが、15頭の犬は首輪で昭和基地付近につながれたままにされた。
17日、宗谷はバ号と共に外洋に出た後、18日、密群氷に再進入し昭和号を発進させられそうな水路や氷山を探したが見つからず、19日、風速30メートルを超える暴風雪により探照灯と電話アンテナがもぎ取られた。最後にせめて安楽死させようと考え、ヒ素入りステーキを準備したが昭和号が飛びたてる海面がなく、帰国期限の2月24日を迎えた。
24日、南極本部より第二次越冬・本観測を放棄せよとの命令が下り、計画を断念し、第2次越冬隊の派遣は断念された。それとともに15頭の犬の救出も見送られ、残された犬達の生存は絶望視された。この犬を置き去りにしたことにより、観測隊は激しい非難を浴びることとなった。7月には大阪府堺市に15頭を供養する銅像(樺太犬慰霊像)が建立された。
1959年(昭和34年)1月14日、第3次越冬隊のヘリコプターにより、上空から昭和基地に2頭の犬が生存していることが確認される。着陸すると駆けてきて操縦士に寄ってきたが、個体の判別がつかなかった。急遽、第1次越冬隊で犬係だった北村が次の機で基地に向かうことになった。犬達は北村に対しても警戒していたが、北村は2頭の中の1頭の前足の先が白いのを認め、「ジロ」ではないかと考え名前を呼んだところ反応して尻尾を振った。もう1頭も「タロ」との発声に反応したことから、この兄弟が生存していたことが確認されたのである
基地には7頭の犬が首輪につながれたまま息絶えており、他の6頭の消息は知れなかった。基地に置いてきた犬の食料や死んだ犬を食べた形跡はなく、アザラシの糞やペンギンを食べて生きていたのだろうと北村は推測している。北村らは3次隊越冬の際、タロとジロが2頭でアザラシに襲いかかる所や食料を貯蔵する所を目撃している。この兄弟は特に首輪抜けが得意な個体だったと言われる。
しかしその後、北村は、犬たちはペンギンを襲うことはあっても食べることはまずなかったこと、アザラシの糞は好んで食べたが、アザラシを襲う際に海水に落ちる危険があること、いずれにせよ、犬たちが犬用食料(第2次隊が給餌しやすいよう開梱した状態で残されており、容易に食べられる状態であったにもかかわらず、全く手がつけられていなかった)よりもそれらを優先したとは考えがたいことを指摘し、これらの説を否定している。北村はその上で、食料の候補として、海水に浸かったため天然冷凍庫内に放棄されていた人間用食料(人間にとっては臭くて食べられたものではなかったが、犬は好んで食べたという)、第1次隊が犬ゾリ調査旅行を行った際にデポに残した食料、調査旅行の際に発見されたクジラの死骸、の3つを挙げている[5]。
タロとジロの生還は日本中に衝撃と感動とをもたらし、2頭をたたえる歌「タロー・ジローのカラフト犬」までもが作られたほどである。さらに日本動物愛護協会によって、当時開業したばかりの東京タワーに15頭の樺太犬記念像が設置された。
僕がこの話を読んで、日本人の動物処理法が、イギリスの動物処理法に勝ったことがわかった。