元の記事:手仕事と機械 (1085字)
佐々木詩 utauta 2024/10/14 20:18:37 39588
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一段落&要約
機械はとにかく利得のために用いられているので、できる品物が粗末になりがちです。日本では手仕事などは時代に取り残されたものだという考えが強まってきました。不思議なことに方々で巡り合った手仕事による品物は、それがどんなに美しい場合でも、一つとして作った人の名を記したものはありません。手仕事をしている人達、彼らがこの世に生きていた意味が品物に残る。
私は昔、学童でお菓子の空き箱に本物に似た食べられないお菓子を作っていた。一番うまくできたのは、ヨーグッレットというラムネのアルミのケースと中身を作ったことだ。ケースは紙に丸い穴を開けてアルミはくを貼り、ラムネはボンドに色をつけて固めて作った。紙に色を塗って実物大のばんそうこうを作ったこともある。本当には使えないが、見た目がかわいいばんそうこうができて達成感があった。それは去年の夏休みに作ったものだが、今でも大切にとってある。こういう手作りしたものは多少崩れてしまっていても作った人の気持ちがこもった物だから面白いと思えるのだろう。
七十八歳になる大叔父は土からろくろで、それも足回しのろくろを使って和食器を作っている。大叔父は自分のことを陶芸家ではなく「作陶家」と言っている。自分の作るものは芸術家の作る美術作品ではなく、職人の手仕事による品物だと思っているからだろう。その作られた陶器の裏にはどれも小さく名前の頭文字を取って「ひ」という刻印を押している。だから文に書かれていることとは違っているけれど、手作りでも少し名前を書いている人もいた。小さくこだわっているところがあって、他にもお茶碗の底をツルツルになるまで丁寧にお皿とお皿を合わせて磨いていて、そこまでするのは時間がかかるのにすごいと思った。ちなみに父が、大叔父が作ったカップで毎日コーヒーを飲んでいて、そのカップで飲むのが一番美味しいと言っている。大叔父の個展では、「どうぞ、どんどんお手に取ってみてください」と言っている。美術品の展覧会では「お手を触れないでください」と書いてあって、真逆だと思った。大叔父はお客さんがお茶碗を手に取って、好みの質感や手のサイズに合ったものを見つけて、毎日使って欲しいという思いがあってそういう声かけをしている。
機械で作られたのは綺麗で、可愛くて、あまり壊れにくくて正確で色もはっきりしている。でも気持ちがこもっていない気がする。ハンドメイドの洋服やカバンは少しがたついていたりするけれど、手に取って買ってくれた人がお守りみたいに良いことが起こりそうだと感じてくれたらいいなという気持ちが込められている気がする。