教育は、個人のためだけにあるのではありません。
個人の立身出世の手段としての教育という考え方は、福沢諭吉の時代なら意味がありました。
しかし、今はそうではありません。
よりよい世の中を作るために個人が成長するという、社会と個人の利益の両立が、これからの教育の目標です。
例えば、カンニングをしてでもいい点を取るというのは、社会全体の利益に反する個人の利益です。
それに対して、誰も見ていないところで、そっと人助けをするというのは、個人の利益にはならない社会の利益のための行動です。
この個人の利益にならない社会の利益のために行う行為を育てるのが、文化の教育です。
文化の教育は、点数には現れません。
だからこそ、この教育が最も大切なものです。
そして、こういう文化の教育を育てる場所は、まず第一に家庭なのです。
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教育とは、受験に合格するためにあるのではなく、人間として成長するためにあるものです。
だから、成績さえよければ、ほかのことをどうでもいいというのではなく、ほかのことをまずきちんと育てていく必要があります。
それが、身の回りの整頓だったり、弱い人への思いやりだったり、いざというときの勇気だったりするのです。
日本の社会のよさは、そういう教育が文化の中で自然に培われてきたことにあります。
これを更に意識的なものにしていく必要があると思います。
「受験の教育から、文化の教育へ」
https://www.mori7.com/index.php?e=2083
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教育の目的が、社会をよりよくするために個人の成長を図ることというのと同じように、企業の目的も、社会をよりよくするために利益を上げることです。
利益を上げる仕組みのないボランティアがあれば、それはボランティア個人の損失ではなく、社会全体の損失です。
もちろん、今の社会の仕組みの中ではすぐには利益の上がらない行動もあります。例えば、街をきれいにするためにゴミを拾うことなど。
しかし、そういうことであっても、常に利益化する仕組みを考えることが本当のボランティアです。
勉強のできない子に大学生などが無償で勉強を教えてあげるというボランティアがあります。そのこと自体は尊いことですが、本当は勉強のできない子を作らない仕組みを作り、それをコストのかからない方法で回すことが大事なのです。
教育の目的は、単に子供たちを育てることではなく、明日の日本を支える子供たちを育てることです。
「選択問題のテストで時間が足りなくなったら、どこでもいいから○をつけてこい」と言うのは教育ではありません。
「時間が足りなくなったら、潔くそこであきらめろ」というのが本当の教育です。
ちなみに、「潔い」という言葉でぴったり英語に該当する言葉はないようです。日下公人さんが著者でそう書いていました。渡部昇一さんは、「manlyがそれに近いが」と答えたそうです。日本文化は語彙の点からも奥が深いのです。
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