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アジサイ の広場
武照 あよ 高2
 「人の魂や心といったものは、これまで言われていたほど神聖なものではな
い可能性があります。」
 
 ワトソンと共にDNAの二重螺旋構造を発見したクリック博士は言う。近年
の、主に遺伝子の研究は、人間の精神の領域にも入りこもうとしている。ノン
フィクション作家の立花隆は、「幻腕」、つまり事故で失った腕や足に感覚を
感じる現象、の取材を通して次のように言っている。「現実とは、脳によって
認識された仮想現実なのかもしれないし、また逆に仮想現実こそ現実なのかも
しれない。」人間の「心」は「現象」なのか「実体」なのか現在我々はその間
で揺れ動いている。
 
 この心の論争は私の手に負えるものではないが、一つ言える事は「現象とし
ての心」と「実体としての心」の対立はいつの時代にも存在してきたという点
である。クリック博士も指摘している事ではあるが、心は実体があるという考
えは「魂」の存在を意味しており、キリスト教などの宗教的世界観の前提とな
っている。それゆえ、世界を合理的に説明しようとする原始科学は常に迫害を
受ける事となったのである。そして「神の死」こそ、科学で説明できる「現象
としての心」の、神聖なる心からの復権であった。
 
 良くも悪くも現在の文明は、「実体としての心」を殺す事によって発展して
きた。医療は、体を心の宿った神聖なものとしてではなく、具体的な物や図形
として扱うことによって進歩してきたし、工業においても人間をロボットと同
じ「労働力」と見る事によって成り立ってきた。デカルトの夢診断を原点とす
る精神医学はその最たる例であると言えるであろう。我々は「心」を殺す事に
よって、多くのものを生み出してきたのである。
 
 しかしそれは同時に多くの問題を我々にもたらした。これはミヒャエル・エ
ンデの、「終わりなき、そして加速する輪舞」によって「ゼーレ(魂)を置き
忘れて」しまったという指摘に象徴されている。無機化した「心」への偏重は
、我々から人間らしさを奪ったとも言われている。最近、「癒し」という言葉
をよく耳にするが、これは「現象としての心」「無機化した心」への不信と無
関係ではないだろう。
 
 もし仮に、遺伝子学の発展が「心」すなわち精神のシステムを解き明かすこ
ととなったらどうなるであろうか。人類に、「現象としての心」こそがまた実
体なのだという事を、仮想現実こそがまた現実なのだという事を認める勇気が
あるであろうか。「現象としての心」と「実体としての心」の共存の道を探す
事がこれから必要となってくるかもしれない。
 
 遺伝子の仕組みの解明された後の世界をどう思うかと問われて、ある遺伝子
学者は言った。「私は未来に楽観的です。なぜなら私は、人間はそこまで愚か
ではないと信じているからです。」結局「心」の未来を決定するのもまた、人
間の心なのかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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