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がっちゃんはかっわいい
ウグイス の広場
がっちゃん てな 中3
 
 
 
 時代はアイデンティティ不定の時代だといわれている。私はなにものか。私
は何をして生きていけばいいのか。どうすれば自分らしさを発見できるのか。
かつては大人になることは共同体の核をなしている精神を心身両面において理
解しそれを自分が生きていくための基本の形として承認することを意味してい
た。ところが近代は子供から大人への変化期からこの単純な境目を取り払い、
代わりに「教育課程」という、節目のはっきりしないたいへん間延びしたプロ
セスをあてがうことにした。言うまでもなく、学校制度がその機能を果たすこ
とになったのである。
 
 「学校制度」は最近崩れてきている。大人になるためのプロセスになってい
ないのである。まず、教師の質がおちている。私の体験談を聞いてほしい。私
は、私立の高校を受験したため、みんなより早く高校に願書を届けねばならな
かった。授業を抜けて東京の高校に願書を届けに行き、自分の中学に帰ってき
て先生に受験番号を伝える。その時、受験票にはってあった私の引きつった証
明写真をみて、担任はこういった。
 
 「かわいくはねえけど、まあ、いい顔だな。」
 
 正真正銘のセクハラである。こんな不届きな先公が公務員という職業につき
、横浜市からたくさんの給料を貰っているのは、怒りを通り越してあきれはて
る。
 
 そして、自分の能力に合った高校に行くために大切な成績も、自分の気に入
らない生徒には2や3を、お気に入りの生徒には5を与える。その証拠に、う
ちのクラスの個人面談のとき、柏陽行きの生徒や理科が5の生徒は15分。いや
、人によれば5分で終わった人もいるというのに、私のような東京の誰も知ら
ない高校に行くめんどくさい嫌いな生徒には1時間という長い時間親子ともども
お説教をする。なんたることだ!私の父のように洋上でがんばってマグロの調
査をしている真面目な公務員もいるのに。
 
 今の教育課程は、これからも続くであろう。悪いことをただ悪いと怒鳴り、
良いことをしたら棒読みの「ありがとう」をいうという教師は、学校制度に貢
献できてないどころか、悪くする一方である。教師の接し方一つで、生徒など
どうにでもなる…のかもしれない。子供が大人になるためのプロセスとして作
られた「教育課程」ならば、ちゃんとしっかりしたスタッフを雇う必要がある
と思う。そのためには学校制度を見直し、もっと厳しくするべきである。生徒
としっかり接し、柔軟な性格の持ち主を先生としなければならない。
 
 このように、「教育制度」というものは、間延びしたプロセスであるどころ
か堕落したプロセスなのではないのか。こんな生活を間延びして続けていて、
大人になれるのだろうか。新潟県柏崎市で9年間男の家の2階に監禁され続け
た19歳の女性のように、学校制度という小さなみかん箱の中に詰め込まれたま
ま9年間船の航海を続けていたら、どうなるか。しかし、そういう最悪な経験も
大人の第一歩なのかもしれない。(皮肉)「経験は最良の教師である」という
名言もあることだし。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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