on my way, on your way. |
アジサイ | の | 滝 | の広場 |
ペー吉 | / | うき | 中3 |
日本人は曖昧であるとよく言われる。確かに、YesとNoをはっきりさせる英語 |
的な文化と比べれば、日本語の表現は時に非常に曖昧であろう。だが、日本人 |
同士ではその曖昧さで物事が通じてしまっていた。はっきり物事を分けようと |
するのは、野暮だとか朴念仁だとか言われた。日本語の美しい多彩な表現は芸 |
術には向いているが、困ったことに言語の目的であるコミュニケーションをと |
る手段としては、曖昧でわかりづらいものになってしまうのだ。 |
しかし、だからといって日本人にはっきりした日本語を使えとは言わない。 |
前述したように、日本語の表現は同じ物事を表わしていても非常に多い。語彙 |
の多さは文章の分かり難さにつながり、ある単語の解釈でも人によって大きく |
異なってしまう。もちろんすべての言語にそういった側面はあるが、日本語は |
コミュニケーションをとるにはあまり向かない言語であると言える。以前読ん |
だ本にあったのだが、例えば日本語で「赤」と言ったとする。それを聞いた人 |
が想像する赤色は人によって異なり、夕日の赤を思い浮かべる人もいれば、血 |
のような赤を思う人もいる。赤ペンが欲しいのかと思う人もいるし、共産党の |
ことかと思う人もいる。日本語は分かり難いのだから、可能な限り他の文でフ |
ォローをいれなければならないという。これだけを見ても、日本語の意思伝達 |
が難しいのはわかるだろう。 |
だが、日本人は上手いコミュニケーションは諦めろというわけでもない。現 |
在多くの中学校や高校で、英語教育が行なわれている。英語の表現は日本語に |
比べればすっきりしており、そうややこしく誤解されるようなものは少ない。 |
また、英語は現在最も広い範囲で使われている言語であり、これからの国際的 |
な外交の情勢を考えれば、「コミュニケーション手段」としての英語習得はマ |
イナスにはならないだろう。日本は、小さな島国で鎖国という政策をとってい |
たこともあり、その言語はかなり内側へ向けて広がってしまっている。だから |
、我々は多くの人間と友好関係を結ぶために、英語を学ぶべきであると思う。 |
日本語の美しい表現を捨てるのか、という声もあるだろう。微妙な感情の機 |
微を表わせる日本語の素晴らしさ、美しさ。私もその一端は理解しているつも |
りだ。そして、賛同もしている。私は、日本語を捨てて欲しいわけではない。 |
日本語の芸術性や文学性を磨きつつ、外交手段として英語を習得する。向いて |
いるもので向いていることをやり、向いていないことは別のものでやる。「一 |
人でも大丈夫さ ここにはなにもない wanna be without |
you」。B’zの歌詞は、日本語と英語がよく混ざっている。そして、それが不快 |
なく共存している。使うべき場所、使うべきでない場所を熟知しているからだ |
。「ここにはなにもない」というのはとても様々な解釈がとれる。文通りの意 |
味ではないだろう。「wanna be without |
you」は非常に言いたいことがはっきりしている。英語と日本語の差である。も |
ちろん、詞の表現技法であるから、私が論じていることと多少は違うが、本質 |
的にそう大差はない。私たちは、日本語にとどまらず新しい言語を学び、そし |