自然に対する人間の働きかけには |
アジサイ | の | 丘 | の広場 |
武照 | / | あよ | 高3 |
「劇場にライオンを連れて入ることを禁ず。」(メリーランド州ボルチモア市 |
) |
「委員会の許可なくして、酔うことを禁ず。」(カリフォルニア州ソーサリ |
ート市) |
「魚を手で捕ることを禁ず。」(コロラド州トルテック市) |
これらは栗本慎一郎の「パンツをはいたサル」に載せられていた、アメリカ |
の滑稽な法律である。アメリカの土地柄もあろうが、現代は日本も含めて法律 |
を量産してきた時代であると言える。アメリカばかりを笑ってはならない。日 |
本でも必要とみなせば、どんどん新しい規則を作ってきたのである。身近なと |
ころで言えば、三十年前たいていの小学校では「メンコを学校に持ってきては |
ならない」という学則を作ったという。現在はと言えば、「ウォークマンを持 |
ってきてはならない」などとあまり変わっていない。「ただし英会話学習用テ |
ープは除く」と規則の上塗りをするところもあったりして。一度決まってしま |
った規則は撤回するのが難しい。それは法律とは、それを制御する側であるべ |
き人民を対象とするものだからである。かくして大量につくられた法律は人民 |
によって制御を受けぬままずるずると古びて行くのである。法律だけではない |
。これまでは「量」の時代であった。量があれば幸福だと信じて、せっせと新 |
しいものを作ってきた。しかし量が満たされると、行き過ぎを制御できないこ |
とにはたと気付く。「量」の時代の夢と「制御」を必要とする現実の差が数々 |
の問題を生み出しているのである。 |
なによりも「量」が求められてきた背景には、二つの時代を経てきたと言う |
ことがある。一つは当然と言えば当然だが「不足の時代」である。日本の高度 |
経済成長は戦後の物不足の反動であると言われる。正しいだろうがそれ以前の |
日本では、例えば縄文時代には、現在に比べれば低い生産力でも一応満足して |
暮らしていたはずである。「不足の時代」とは情報手段の発達による「充足を |
不足と強く意識させられる時代」と言い換えることができるかもしれぬ。 |
もう一つは「対立の時代」である。前のアメリカの滑稽な法律も、根深い民 |
族対立の中で生まれてきたものであろうし、物が溢れる消費社会も企業の利害 |
対立が一端を担っている。東西冷戦を発端とするベトナム戦争で、アメリカ軍 |
は多くの犠牲者を出したが、その「反省」から情報機器を満載したハイテク戦 |
争を生み出した。「指令塔のコンピュータ上で敵軍の動きが手に取るように分 |
かる。しかしその一人一人が家族を持つ人間だと思うととても嫌な気分になっ |
た」と、もと米軍大将は言っていたが、「ハイテク兵器」も行き着くところに |
行き着いてしまったと私は感じた。東西冷戦という国家対立が、量への欲求を |
推し進めたのである。もちろんその制御など考えずに。 |
たしかに「量」の時代は我々の夢をかなえてくれた。人間ならだれしも、お |
金は多ければ多いほど良いし、マイカーもマイホームも欲しい。しかしその量 |
への欲求は達するところまで達してしまったのではあるまいか。薬だって飲み |
すぎれば毒になる。我々は全てに対して解毒剤を持っているわけではないのだ |
。自然破壊を修復する術も、ハイテク兵器の犠牲者を生き返らせる力も我々は |
持っていない。我々は「量」の時代から「制御」、そして「方向づけ」の時代 |
への移行を求められているのかもしれない。 |
法律が細かすぎて困った日本国は「法律を作ることを禁ず」という法律を作 |
るかもしれぬ。しかしこの法律を作ること自体が法律違反だと、政治家が頭を |
抱えたりして。笑えない話である。 |