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「少年のころの桜は」を読んで
エンジュ の広場
寛子 こた 小6
 「桜前線」という言葉があるが、この言葉はいただきかねる。ところが、散
り初めのころのある日、枝を離れた花びらを見ていて、これが地面に達するま
でのあいだの状態を、ぴたりと表わす言葉がないのに気がついた。もし日本語
にそれがなければ、それは日本語の語彙の貧弱を意味すると、二十年前と同じ
事を考えさせらえた、日本語にならなくてはならない言葉のように思えるのだ
が。
 
 私は、去年のクリスマスに私がどーしても欲しかった物がありました。それ
は、電子手帳でした、でもそれをもしもらえたら、私はなくほど欲しい物でし
た。
 
 でもその夜、クリスマスパーティのご飯中おとうさんが、
 
 「寛ちゃん、はい、クリスマスプレゼント。」
 
 といわれ、どきっとしました。でも、その時くれたのは、私が欲しかった
 
 電子手帳でした。その時私は、あまりにうれかったけど、その嬉しさを言葉
に言い表せなかったのです。そんなとき、日本語って言い表せないことがある
くらい言葉はまずしいのかなと思う時がありました。
 
 言い表せない時があるのは、言葉が貧しいというよりも、言葉がありすぎて
 
 ゆたかだというふうに、置きかえることもできると思います。でも、あまり
においしい、うれしい、痛いという時に言葉が言い表せないことがあるのは、
私なりに言うと、言葉がありすぎて、ゆたかだというふうに考えると思います
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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