先頭ページ 前ページ 次ページ 最終ページ
本来あるべき集団の姿
アジサイ の広場
Lisa あいす 高1
 集団は裏切り者と犠牲者をうみだすことにより、活力をうみだす。キリスト
教もユダという裏切り者と、キリストという犠牲者をつくりだすことにより、
今まで世界の3大宗教のなかの一つとして発展をとげてきたのだ。しかし、これ
からは犠牲者、裏切り者を作らずに集団というものを維持していくべきだ。
 
 そのためには、まず個人が強くならなければならない。個人が強く生き、そ
の集団をよりよくするために努力することが、何より必要だ。なぜなら、集団
が裏切り者と犠牲者によって自己完結を目指す、ということはその集団が衰弱
してきている証拠だからだ。そうならないよう、一人一人が集団の向上のため
に働かなければならない。部活という一つの集団がある。この部活は、傍目か
ら見ればまとまりのあるものかもしれない。しかし、実際は、先輩の文句を言
い、顧問の悪口を言いながらなりたっているようなものだ。少なくとも私の学
校はそうであろう。これでは、この部活はたとえ技術が向上したとしても、集
団的には低レベルのものであり続けてしまう。犠牲者、裏切り者を出さずに部
活の活力を維持する、これが本来あるべき部活の姿なのであろう。
 
 このことは、国単位でもいえることだ。国のまとまりを維持するために、他
国を犠牲者としてはならない。早い話、戦争を自国の活力の維持のための手段
として、行ってはならないのである。現在、民主主義の国が増えてきた。これ
は、国の方針を国民中心にするということだ。戦争は、国民のためではない。
本当に国民のためになることを、考え、実行するこれが本来あるべき国の姿な
のだ。
 
 確かに、活力を維持するもっとも簡潔な方法は、犠牲者と裏切り者を生み出
すことであろう。しかし、これは人間の弱さの現われである。「急がば回れ」
というように、時間はかかるかもしれないが、集団のため、また個人のために
も、敵を作らずに集団を活力のあるものとして維持することは大切なのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ホームページ