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流行と古典
アジサイ の広場
あやの あしわ 高3
 古典と流行の在り方には相反する二つの考え方がある。古典にばかり囚われ
ていては流行の先端には追い付いて行けないというものと、古典には全てが含
まれているので、流行に流される前に古いものを見直すべきだという二つだ。
確かにどちらにも一理ある。古典の知識のみに縋っていても社会は一向に進歩
しないだろうし、流行を追い続けるのみで後ろを振り返らねば、同じような失
敗を何度も踏む羽目になるだろう。
 
 だが私はこれからも古典を疎かにしてはならないと思う。現に故事成語やこ
とわざ等から、私たちは多くを学ぶし、何千年と昔に中国で興った儒教の思想
などは、一部ではあるが未だ日本の極日常的な道徳感として通用する。古典と
は人間が歴史上自ら築き上げたものであり、その年月分の知恵の集結である。
ここでは決して「時代遅れ」の思想のことを言いたいのではなく、基本的極最
小限の道徳的観念を持って、私は古典を尊重する考え方に賛成だ。
 
 そしてこれからも私たちは古典を創り上げて行くのだろうが、これがなかな
か実感しづらい。富田君の文章に、「流行」が「古典」と成りうるとあるが、
私もほぼそれに賛同する。例えば、音楽の教科書にバッハやベートーベンと並
んで既にビートルズが掲載されていることだ。デビュー当時はただのバンド、
その価値が見出された結果、解散という路をたどり神秘化されたところで、古
典となったのだ。現存する古典にはその価値が有る故に存在し、敬われるので
ある。
 
 古典に固執してしまうと、新鮮な、斬新なアイディアが見逃されてしまうと
いう危険性は確かにあるが、私たちは古代からの人々の英知を軽んじるべきで
はない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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