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ゼネラリストとスペシャリスト
イチゴ の広場
くみこ さく 高2
スペシャリストとゼネラリスト
 
               磯野久美子
 
 最近は、社会でゼネラリストが求められている時代らしい。大学入試など教育
の場でも、どの科目でも平均的にできる子供だけでなく、一芸に秀でた子供も認
めるようになってきた。昔はゼネラリスト、つまり全分野にある程度の能力を持
つ人に重きを置いてきた日本の制度がこのように変わってきたのはなぜだろう
か。
 
 まず一つめに、ゼネラリストがいた方がその分野における深い知識が得られ
るということが挙げられる。当然ながら、ゼネラリストは広い範囲の知識は持
っているが、その一つ一つはスペシャリストに勝るものではない。スペシャリ
スト十人の方がゼネラリスト十人よりも強力な集団であることは言うまでもな
いことだろう。私は昔「なぜ小学校の先生は全部の教科を一人で教えるのに、中
学校になると毎時間違う先生が教えるのか?」と不思議に思っていたが、その問
いの答えがこれである。
 
 もう一つの原因として、「他者と違うところに個人の存在の意義がある」と
いう考えが挙げられると思う。ゼネラリストはみな同じ能力を持っているので
あり、そういう意味でロボットのような「個性のない人間」と言うことができる
。しかしスペシャリストは個々人によって能力のある分野が違い、みなそれぞ
れが自分の役割を持った重要な存在になるのだ。例えば、人間の体では耳は三
個も四個もあっても仕方ない。耳はもうその確立した役割を担っているのであ
り、その他に別の役割を受け持つ手足や鼻、目などが必要になってくるのだ。
もっとも私は、口はもう一つくらいあったほうが便利だと思うのだが。(笑)
「餅は餅屋」ではないのだが、「音は耳」「においは鼻」と言うようにそれぞ
れに専門の役割があるからこそ、人間という一つの個体が存成立するのだ。
 
 確かに、それぞれの役割を持ったスペシャリストをまとめるためには、ゼネ
ラリストのような広い幅に目の利く人も必要になる、と言う人もいるかもしれ
ない。しかし、そのように人をまとめるべきなのは「一通りの知識と経験を持
っているゼネラリスト」ではなく、「人をまとめる分野におけるスペシャリス
ト」である。問題なのは、日本の社会におけるスペシャリストというのは、そ
の判断基準が知識や能力ばかりにこり固まっており、能力という、人目では判断
しきれない部分においてはまだまだ認められていない、ということである。これ
からどんどん必要とされるであろうスペシャリストが、どの分野においてもそ
の存在価値を認められるよう願っている。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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