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あいさつ カモメ の広場
ナズナ あもせ 小5

 人間の場合出会いのあいさつ行為は相手が以後仲良く共に行動してゆける仲間かどうかの身元確認にもつながっている。社会生活を営む人間にとって、別
れて時を過ごすということは私たちが思っている以上に、他者に対する言い知れぬ不安をつらせるものらしい。  

 私が三年生のころ喧嘩が女の子どうしでよくあった。しかし、その喧嘩は面と面を向きあってやるものではない。いわゆる口喧嘩ではない。ひそひそと内
緒話をしたりする。また、わたしが一番嫌だったのは、「無視」であった。  

 私の机に野球バットが置いてあった。誰のかわからなかった。近くの人に聞いてみる。
 

 「ねえ、わたしの机においてあったバット、誰が置いたか見なかった?」
 

 その子は私の顔を見て「知らない!」ときつくいった。それにその日の国語の時間に「ねえ」と訪ねると何もなかったように通り過ぎてしまう。
 

 しかし次の日には…。
 

 「おはよ!」
 

 私はその子に手をたたかれた。やはり私は嫌われてなかったんだとほっとした。
 

 私たちが別れのあいさつをする理由は再び会う時まで今別れる時と同じ親愛の気持ち、同一の帰属感を相手が抱き続けることをあらかじめ確認しておきた
いのであろう。このような解釈が正しいと思われる理由は次のような事実の意味を考えてみれば分かる。人間でも動物でも短い別れの時と、長い別れの時あ いさつは異なっている。  

 例えば私は学校に通っているが、隣の席の子がハワイに行くそうだ。そのあいだ、わたしの隣の席はずっと空いたままだと考えると、何回もあいさつをし
て、また今度ね。と言うが、ふだんは軽く「じゃね」くらいしか言わない。ひどい時は何も言わない時すらある。また、よく考えてみると朝のあいさつもそ うだ。お母さんやお父さんに何も言わずに牛乳をのみに行く。それに学校でだって誰も何も言わずに教室の電気をパチンとつける。私は本文のように、やは りさみしいなと思った。帰りの会でも日直が「さようなら。」という。が、多くの人が何も言わずにただ頭を下げているだけだった。  

 その事は、友達も気になっているらしい。友達の藤田遙ちゃんは「いっつもいっつもあいさつをなにも言わないからさみしいよねうちのクラス。それにさ
あ日直しかさよなら言ってないじゃん。」と述べる。あいさつはいかにたいせつなものか、やはり人の心を「おしゃべり」以上に心を通じ合うことができる 。だから、あいさつをいわない、言われない事はどれほど不安で心配なものかぁよく理解できると思う。  

 
                                   
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