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知るということ、得るということ アジサイ の広場
眠雨 うき 高1

 近年の技術進歩により世界は驚くほど狭くなった。インターネットやテレビ、ラジオにより世界中の情報がほぼリアルタイムで飛び込んでくる。雑誌では
世界情勢に限らず受験情報や商品情報、勉強のコツから果ては今日の運勢まで、我々のまわりとぐるりと情報が取り囲んでいる。だがこうした情報を取り払 ってしまったなら、果たして現代人の頭の中にはどれだけ「自分の知恵」が残っているのだろうか。情報を蓄積するだけの、単なるデータベースになってし まってはいないか。こんな時代だからこそ、我々は自分の「知恵」、思索する力を大切にしていくべきだ。  

 そのための第一の方法としては、幼年期からの読書があげられる。本を読むこと、思想に触れることは人格形成の苗床になり、本の内容について「考える
」力をつける。そうして「自分で考えること」を身につけ、その結果「知恵」をもっていく。現代の若者は本当に書を読まない。無論例外もあるが、所謂そ の「若者」であり、おそらく「例外」の一人でもある私から見れば、同年代の人間の読書離れは著しい。ある倫理の授業中、教師が「人間は万物の尺度であ る」という理論の問題点を指摘せよと生徒を指した。専用の資料も与え、教科書でも学んだ範囲である。だが、結局数人を指しても誰一人答えられなかった 。外れたのならいい。一言も話せなかったのだ。私がこの話を読書好きな友人にしたら、彼女はすらすらと「その論法では誰もが正しさを得るために強者の 理論が罷り通ってしまう」と答え、その後に顔を見合わせて苦笑したものだ。考えをまとめる力が足りなかったのか、あるいは考えを言葉にする力が足りな かったのか。読書感想文に四苦八苦した(しかも「本を読む)段階で!)というクラスの友人を見る度、現代人の読書量の足りなさを痛感する。  

 また第二の方法として、文章を書くのもいい。自分の思考をまとめる際にこれほど後で確認しやすいものはないし、何より推敲を重ねてさえいけば、他人
に思考を伝える有効な手段となる。様々な事柄を文章にまとめていく訓練を日ごろからしていけば考える力も養成でき、なにより有史以来人類のコミュニケ ーション手段の最たるものとは結局言葉であったのだから、蓄積し他者と共有できるという知恵独特の、情報にはない特性を最大限に生かすことができる。 気が向いたときにひょいとできる読書とは違い、執筆は常にある程度の時間と紙にペン、それに思索を進める環境が必要となる。若干御しにくい方法ではあ るが、読書が習慣づいたならばこれほど有効なものもそうないと思う。無論、自分一人で文を書いていては話にならない。それでは単なる独善的な思想に終 わることになる。超越と疎外は違うのである。常に読者をおき、そして意見を交換するのが知恵の在り方としても望ましい。詩人である中原中也は上京した 折に諸方の文学屋と弁を戦わせ、自分の肥やしとしたそうである。また、同棲者長谷川泰子に対し彼が求めた関係とは「恋人」ではなく、「家族」であり「 読者」であったという。そこまで文章に生涯をかける必要はない、と言っては中原に失礼かもしれないが、まあ凡庸な人間には縁の無いことである。ただそ れでも文章には読者が必要だし、思想には相手が必要なのだ。そうして知恵は共有され、より高く進歩させることができる。  

 確かに情報を保持することも大切である。というより、今やこの情報社会においては不可欠であると言っても過言ではない。大量の情報を持っているから
といってその人間が無能なわけではない。私はほとんど苦も無く二千字の文章を書けるが、日本の総理大臣のフルネームは言えない。私は五百ページの本を 前に期待をするが、プロ野球のチームを知らない。私は今時の高校生と比べて劣っているわけではないだろうが、決して優れてもいない。だが現在の情勢に おいて、「情報」は圧倒的に手に入りやすく、「知恵」は根づきにくいという現実がある。楽な方へ流れていく人々は、自然と知恵から離れていく。情報を ないがしろにしろというわけではない。自分で考えるということを忘れてはいけないのだ。激しく揺れる情報という荒波の中で、うたかたのように消えてい く知恵を、我々は見つけ、そしてすくいあげるべきだ  

 
                                                 
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