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清書:点的論理のよさ イチゴ の広場
弥生 いきか

 あうんという言葉があるほど、日本語は親しい間では形式的論理を敬遠する言語である。母親などと話していると「あれをなにして」という他の人が聞い
てもまったくわからないようなことを言われることがあるが、家族なら理解できる。このようなことは、論理的なヨーロッパ言語では起こらないのではない か。では、なぜ日本語にはこのようなことが起こるのか。それは、日本にはお互いを察し合う文化があり、それをベースに日本語が成り立っているからでは ないだろうか。  

 では、このような点的論理を保つためにはどうしたらいいか。まずは、相手をよく観察し、相手の考えていることを想像する力をつけることだと思う。ブ
ラジルの子供と接していて一番感じるのは、観察力や想像力が乏しいということだ。大人でも同じで、いくら日本語が話せる人でも、話していて違和感を感 じることがある。それは、この観察力、想像力に原因があるのではないだろうか。  

 もう1つの方法としては、点的論理、察し合いの文化とはどういうものなのかを日本の文学作品などを読んで実例として学ぶこと。日本で生まれ育った人
にとっては子供の頃から察し合いの文化が自然に身につくことが多いと思うが、外国語として日本語を学ぶ場合には、まず実例をて、頭で理解していくほう がいい。翻訳にもよるが、その作品は日本語のままではなくてもかまわないのではないだろうか。  

 たしかに、線的論理は誤解が起こりにくい。法律の条文が点的論理で書かれていたら、多くの誤解が生じるだう。しかし、世の中には論理で説明できない
ことも数多く起こる。言葉は論理性でなく感受性である。例えば、愛を線的論理で筋道を立てて語られても、ロボットと話しているような気になるだろう。 言葉の達人になるには、まず、感受性を磨く必要があるのではないだろうか。                                                    
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