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死
アジサイ
の
池
の広場
ほり内
/
ぬり
中1
死は、人間にとって、一番このうえない恐怖だ。ジェットコースターでキャーキャー騒いでも、その1000兆倍怖い恐怖だ。しかし、はるか昔、鎌倉・
室町・安土・桃山・江戸そしてつい最近の、昭和前期。その時代の日本人は、何も死を恐れず、ただ、国・主君の為に命を奉げる武士、兵士がうじゃうじゃ
していた。しかし、日本国憲法の戦争禁止により、日本人は、死を考えたくなくなった。僕だって考えたくない。
しかし、死ぬことは、いずれだれにもくるのだから、僕は死を自覚した方が良いと思う。
その理由は第一に、死を自覚していると、生き生きと暮らせるからだ。これは映画に良くあるパターンで、後1ヶ月しかないと宣告されその1ヶ月間をじ
ぶんのために、1秒、1秒を大切にして暮らすというストーリーが、ある。このストーリーを改めて考えると、成る程と思うところもある。なにせ死を宣告
されているのに、あえてその1秒、1秒を大切にしているのである。それは多分、「死ぬんだったら、残りの時間を楽しもう。」と開き直っているからかも
しれない。死というのは、自分を、開き直せることができるのかもしれない。
第二に、死を自覚しないと、人はダラダラするからである。動物園を思い出して欲しい、動物園にはいろいろな動物がいる。ライオン・シマウマ・インコ
・オカピーなどがいる。そこで注目したいのは、ライオンである。ライオンはいつも檻の中で生活している。そのため、ライオン特有の能力が低下してしま
う。長年動物園に住み続けたライオンをいきなりアフリカのサバンナに帰しても、一週間余りで死んでしまうだろう。このように、死と隣合せの状態で、住
んでいないと、困ることもあるのだ。
確かに、のんびりするのも良いが、しかし「上天気の日に、嵐のことなど考えてもみないのは、人間共通の弱点である。」というように、人間にも限りが
ある事を忘れたくない。
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