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生物学的な部屋 イチゴ の広場
たば星人 あころ 中1

 生物学と建築というと、いまのところいかにも縁遠い存在の様に思われる。だが、果たしてそうであろうか。これまでの建築は芸術性と工学的な技術に重
点がおかれていた。住まいの環境が美しくあることは、確かに望ましいことに違いないが、芸術第一主義では庶民にはとても住めない。われわれは、これま で鉄とガラスとコンクリートで囲まれた空間をつくれば、それが時代の最先端を行く文明の象徴だというイメージを持っていた。だが写真映りが立派なだけ ではどうも落ち着かない。冷たい無機質の材料で囲まれた舞台装置のようなインテリアよりも、木や木綿のような素朴な材料で囲まれた泥臭さの中に、何か 人間の本質といったものがひそんでいることに気がついたのである。これが筆者のいいたいことだが、簡単にいうと、「人間は、整然としているよりも雑然 としていた方が落ち着く。」ということだろう。僕はこの意見に賛成だ。  

 その理由は第一に、僕自身雑然としていた方が落ち着くからだ。例えば僕の家でこんなことがあった。ある日僕が学校からかえってくると、お客さんがく
るというので母が部屋を整然とかたづけていた。僕は、  

 「何でこんなにきれいなの?。」
 

 驚いて緊張してしまったのだ。自分の部屋でも久しぶりにかたづけたりするとなぜか勉強がはかどらなかったり落ち着かなかったりする事がある。
 

 第二の理由は、もし僕が整然とした家に住めといわれたら、一時間後にはぐちゃぐちゃにすると思うからだ。家の亀もヒーターを水槽に入れると、すぐに
うごかしてしまうし、僕も部屋が片づいたらその一日後にはぐちゃぐちゃだと思う。  

 よく親に
 

 「部屋をきれいにしろ。」
 

 とか
 

 「片づけろ。」
 

 などといわれる。しかしそんなにかたづけても落ち着かなくなるだけだと思う。確かにお客さんが来たときはちゃんと片づけないといけないがそれ以外の
ときは自分が生活するのだからそれなりに片づければいいと思った。「家とは、外から見るためのものではなく、中で住むためのものである。」という言葉 にあるとうり家は見た目ではなくて、使い勝手だと思う。整然としすぎて落ち着かないよりは、雑然としていて落ち着いた方がいいと思う。  

 
                                     
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