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競争というのは(感) アジサイ の広場
俊英 いこか

 競争というのは闘争であり、学校の中で、会社の中で、あくことなく繰り広げられ、そのバイタリティーが文明社会を活性化させている。しかし、競争に
勝っても負けても心は平安ではない。だから、癒しを求める社会が出来上がってしまった。確かに、競争のない社会は平穏であるが、勢いもバイタリティー も感じられない。競争社会で戦っている人の方が、よほどイキイキしているように見えるものだ。  

 確かに、我々が今生きている社会は競争社会である。小学生の頃から有名大学に合格するという目標に向かって、受験戦争と言われる長期間に渡る競争を
誰もが経験してきただろう。私も小学校の頃から塾に通い、長い間受験という競争社会を体験してきた。その当時は他人と比べて評価される勉強なんてして も意味がないと思っていた。今となってみると、受験を間近に控えていた高校時代は特に充実していたと思える。実際、大学に合格してしまった後には、ひ たすら勉強したあの12年間は何であったのだろうかという虚しさは残ったが、目標に向かって競争していたあの頃はとても充実した日々であった。  

 しかし、近頃、競争のない人間的な生き方をしたいと望んでいる人が増えてきている。癒しを求める人々は若い世代に多い。多くの大学生は競争から逃れ
た生活をしたいがために大学に入学してくる。また、競争社会に足を踏み入れたくないがために大学に入学してくる。このような目的を持って入学してくる 大学生が多いために、日本の大学生の学力不足が問われている。確かに、大学生である4年間は競争のない生活を送ることができるが、そのことを求めて大 学に来る人は現実社会からの逃避にすぎない。実際、競争のない社会を求めることができても、その中で活力ある人生を送ることはできないだろう。  

 確かに、競争が終わってみると勝敗に関係なく虚しさが残ってしまう。だからといって、競争のない社会社会では活力ある人生を送ることができない。大
事なことは、競争をするかしないかではなくて、これら2つの社会を自身の中で両立させることである。「できあがった規則をなんとか守ろうとすることよ りも、実態に合わせて規則を変えていくことが、真に規則を生かす道である。」とあるように、現実社会において競争のない社会は存在しないが、競争社会 に疲れた時に自身がそれを創ってやればよいのだ。誰もが競争を続けるには限界がある。競争社会に疲れたら、自分が納得いくまで癒しの場を設けて十分に 疲れが癒されたならば、再び競争社会に戻るといった自身の精神的なコントロールが必要である。  

 
                                                 
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