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「叱る」 アジサイ の広場
Lisa あいす 高1

 私が、文章を書くことでやっと生活出来るようになった頃、言葉づかいについて時折注意して下さる二、三の先輩があった。あえて苦言を呈し、叱ってく
ださった方々をかえりみてあり難く思う気持ちは強くなるばかりである。言葉遣いに対する注意は、先に生きた大人がまず子供に対して行なうべきである。 しかし、表現の自由が認められている国なので、注意するからには言葉についての知識が必要である。注意する立場である、教師や親は自覚と誇りをもって 教えていくべきなのだ。  

 
 

 現代の日本では、「叱る」ということがあまり行なわれなくなってきたように思う。しかし、「叱る」ということは、案外エネルギーの要るもので、日本を
活気だたせるためには必要なことなのだ。「叱られる」ことによって人は成長していくというように、現在の日本も甘い社会から、ピリッとした雰囲気が保 っているような、少し厳しい社会に移っていくべきである。  

 そのためには、楽な方法を選ばずに、あえて試練にたちむかっていく必要がある。新学期必ずといって行なう係り決めは、もっとも身近な例であろう。人
気がある係りは一番楽なもので、最後までなかなか決まらないものは、委員会関係の大変なものである。今まで私のクラスはそうだったので、ほとんどの人 がこのような経験をしたことがあるのではないだろうか。しかし、たいへんでめんどうくさい係りをこなすことによって、自分自身が成長していくのだ。私 も中学生の時は、家庭科係りというなんとも地味で楽な係りをしていた。しかし、高校生になってチャレンジすることの楽しさを知った。家庭科係りから文 化祭実行委員に変え、学校の行事にもすすんで参加するようになったと思う。交流プログラムという短期留学にチャレンジしたこともこの一つだ。目にみえ て自分が成長したとはいえないが、内面的に少しは成長したと思う。というよりかは、そう願っている。  

 また、自分自身も誰かに対して「叱る」ということをしなければならない。「叱られる」には「叱る」人が必要だ。私が中1だったころ部活で先輩に泣く
ほど叱られたことがあった。苦い思い出だが、この経験がなかったら部活の練習をまともにやっていなかったであろう。「叱る」ということは勇気のいるこ とだ。叱れば文句が返ってくるというのが常識である。しかし、それを乗り越えなければ自分も他人も成長しない。今、部活で私の学年が「叱る」立場にいる 。まだ本気で叱ったことはないが、後輩のことを思うならば叱らなければならないという事実を受け止めなければならないのだ。  

 確かに、叱られた時の気分は最悪だ。できればこんな気分は味わいたくはない。しかし、「経験は最良の教師である」という言葉が示す通り、どんなに辛
く苦い経験も、人生をプラスに導いてくれるものなのだ。これは社会に対しても同じ事が言える。他国から叱られることによる辛い体験も、日本をプラスに 導いてくれる。これから日本が目標にすべきことは、叱られる体験を大切にするとともに、叱る立場にもなるということだ。決して「叱る」ということはマイ ナスなことではないのである。  

 
                                             
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