先頭ページ 前ページ 次ページ 最終ページ
すべての子どもと大人に… アジサイ の広場
横浜太郎 あわか 中3

 昔から人間はいろいろな分け方をされる。男か女か、日本生まれかそうでないか、大人か子どもか、などである。それぞれ分け方にはいろいろな判断基準
があるが、その中で、基準が曖昧なものの一つが「大人か子どもか」だと思う。なぜ基準が曖昧なのか、そもそも大人と子供とはなんなのかを中心に考えてい こうと思う。  

 まず判断基準についてだが、例えば性別で分けるとき。これは明らかに判断基準がハッキリしている。今さら書くまでもないだろう。次に「日本生まれか
否か」で分けるとき。これも役所に行って調べれば、よほど誘拐されただとか何とかでない限りわかる。しかし「大人か子どもか」はどうであろうか。20歳か ら大人という人もいれば、責任ある行動をとれるようになったら大人とか、判断基準がいまいちよく分からない。これは個人の解釈に任せられているような 気がしてならないのは僕だけだろうか。  

 大人と子どもという書き方は曖昧なので、法律には、子どもは未成年者と書かれている。これだったらなんとなくわかる。成人ではない人のことをいって
いるのである。僕は法律の専門家でないので本当のところはわからないが、多分何法を見ても「子ども」とはかかれていないと思う。つまり、何か犯罪が起こ ったときに、もし未成年者でなく子どもというふうにかかれていたら、それで言い逃れができてしまう。国を守る法がそんなのでは困るので、わざわざ未成 年者というふうにかいてあるのだろう。現に辞書(岩波 国語辞典)を引いてみると、「子ども=幼い子、児童」と書かれている。どこまでが子どもかは明記され ていないのである。  

 大人と子どもを分けるといえば、こんなことが思い出される。今年の成人式であるが、挨拶しようとする市長に向かってクラッカーを発射したり、大声で
平気な顔をして携帯電話で話をしていたり、酒を飲んで暴れまわっていたり、挙句の果てには「帰れコール」がでる始末。ハッキリ言って、こんな人たちが日 本を背負っていくのかと落胆してしまった。もちろん、ちゃんと成人の心をもって出席していた人もいたであろうが。「20歳になった、自分は成人したんだ 」という成人意識なるものが薄れてきているのだと思う。  

 なぜ、そんな風になってしまうのだろうか。
 

 それは、もちろん僕の考えであるが、日本の社会が急速に匿名性の強い、地域の連帯感がない社会になったことと、それにより、自己の確立、つまりは自
分が自分であること、自分の存在証明、これをアイデンティティ(identity)というらしいが、それができないためではないだろうか。先ほどの成人式で騒い だ若者だが、後で謝りにきたらしい。僕も友人と一緒だと、たまに羽目をはずすことがあるので批判ばかりはできないが、人間は、集団に入ると、自分から 抜け出して集団になろうとする部分があると思う。大切なのは、羽目をはずすかではなくて、どう羽目をはずすか、羽目をはずしたことに対して責任が持て るか、という事だと思う。  

 たまに僕も、「まだ子どもなんだから…」とか「もう大人なんだから〜」と矛盾してものを言われることがあり、腹が自立してしまった経験がいくつかあるが
、しかし、結局は自分が思っているほど自分は大人でなく、自分が思っているほど幼くもないということがわかった。だらだらとな〜がい文章を書いてきて 、自分の中で導き出した答えというのが「大人と子どもの境というのは、自分でしたことに対して責任が持てるか持てないか」ということだ。そう考えると、 自分はまだまだ子どもだし、意外と、大人だなと思っている人が子どもっぽく思えたり、反対に子どもだと思っていた人が妙に大人っぽく見えたり…。責任 をとる上で大切なのが、identityの確立、自己証明である。自分がわからない、或いは正しく理解されなければ責任をとることは非常に難しい。「自分が考 えるとおりに生きなければならない。そうでないと、ついには自分が生きたとおりに考えるようになってしまう」という名言が指し示すとおり、早いうちに自 己形成をして、自分の生き方を考えなければいけないということだ。「脱皮できない蛇は滅びる」、いつまでも大人にならない・なれない人は、結局人生を駄 目にしてしまうということなのだ。  

 
                                           
ホームページ