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旅路考 |
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眠雨 |
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うき |
高1 |
旅、というとあまりいい顔をしない人がいる。そんな、わざわざ疲れてまで遠くへいくことないですよ、家でのんびりしましょうよという心境であろう。 |
そもそも現代人はその傾向が強い。文明は大きく進歩し、ほとんどの用事は家にいながらにして済むようになった。その結果として家は離れ難い、明け方の |
布団のような魅惑を持った、惰性のたまり場となっている。だが、旅路は肌寒いばかりのものでは決してない。広がる情景と見知らぬ風景へ、尽きない憧憬 |
は駆り立てられる。停滞した快楽に身を落とさず、住居の環境がこれほどまでに整えられた今だからこそ、我々は旅を楽しむ心を、再び思い起こすべきだろ |
う。 |
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そのための方法として、ひとつには、情熱を持つことである。旅の原動力となるのは、「なにかをしよう」という情熱である。旅はその目的地点へ達する |
ための、あくまで手段であるのだから。あらゆる目的としての夢や、それに限らず精神の一切の動向に、旅は多彩な感傷を与える。見聞を広める、傷ついた |
心を慰める、美しい風景を見る、俳句をつくる。旅の目的はいろいろにあれど、共通するのはそれが、新鮮な旅の体験が、心へともたらす効能に、なんらか |
の期待を持っているということである。そして多くの場合、その期待はうまくいく。実を言うと私も冒頭の「旅というとあまりいい顔をしない人」の一人で |
あるが、それでも文章書きを趣味とする身としての感覚ゆえか、いつもと少し違う道を歩くとき、新鮮な日差しに揺れる風や、あるいは薄汚れてたたずむ標 |
識に、ふと込み上げるものをおぼえることがある。わずかな風景の差異でそのように感じるのだから、これがまったく異国の風景であったりしたならば、そ |
こで体験し得る感動はいかばかりであろうか。 |
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旅といえば、学校での修学旅行というものがある。この修学旅行も、街の外へ出かけて異文化に触れ合うというコンセプトは立派だ。だが惜しむらくは、 |
その体制の問題にある。むりやりのグループ行動、見学場所の指定、順路に沿った場所移動。安全を考えるのならばそうしておくのが妥当なのではあろうが |
、しかしそれは、生徒側が旅を旅として得るものが非常に少なく、また得ることが難しくなってしまう。お仕着せのカリキュラムに旅まで束縛されるのなら |
、生徒の修学旅行の楽しみが、枕投げと告白大会だけになってしまうのも仕方ないと言えよう。この修学旅行の体制が、もっと自由で予測不能な、旅の感動 |
を伝えるようなスタンスに変わればいいのではないだろうか。先日、ある待ち合わせに早く着きすぎて、暇つぶしにコンビニで立ち読みした雑誌に、横浜裏 |
道めぐりというコーナーがあった。中華街や横浜スタジアムといった名所を避け、意外な裏路地の風景を取材するという、マイナー誌の編集者が苦肉の策で |
ページを埋めるために入れたような、若年層にも中年層にも微妙な評価しか与えなさそうな記事であった。なにやら薄汚れて穴の空いたアスファルトとコン |
クリートの壁が写されて、「春には、ここから緑が芽吹く」。アホかお前はとしか言いようのない企画だが、しかしよく考えてみると、旅路の中のこの風景 |
が、学校の修学旅行などには足りていないのではないだろか。 |
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確かに今どき旅行などに裂く時間があれば、もっと別の、例えば自分の情熱の対象へ向かっての仕事がしたいというのもあるだろう。旅行先での事故や食 |
中毒、そこまで行かずとも生水の不安もある。だがそうした、型通りの日常に閉じこもって暮らすばかりでは、非常に視野の倒錯した、偏見と警戒心だらけ |
の人間になってしまう。さまざまなトラブルに対応したり、さまざまな異文化を異文化として認める柔軟性のある人間への、人格形成においても旅は有効で |
ある。「生まれて始めて故郷を出で、飛び立つ思ひなり」とは中原中也が東京へ出た当時の日記である。この素直な外世界への情熱と憧れが、現代に毒され |
て暮らす、我々には必要とされている。 |
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