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公園に行こう アジサイ の広場
UZI.SMG そお 高1

 日本において庭というと塀に囲まれた個人的空間というイメージがある。しかし外国では公園を意味するようだ。これもいわゆる文化の相違だと思う。現
在の日本においては庭が個人のステータスシンボルであり、一昔前で言えば車やカラーテレビのようなものの延長であるように感じる。また、最近ガーデニン グなどという趣味が登場したが、これは盆栽の延長だと思う。つまり個人でひっそりと楽しむ、ある意味で茶室のような存在なのかもしれない。また日本には 庭とは別に公園が存在するがこれも庭をちょっと大きくしただけの陰気くさいのもが多い。一方海外、特に欧米では庭はみんなで使って楽しむ公共的な存在な のであろう。これらを比較して甲乙をつけるつもりはさらさらないが、日本にももっと堂々たる公園があってもいいと思う。  

 
 

 日本人がもつ庭の概念を否定しようとは思わないしそれはそれであっていいと思う。だが、公園というのはやはりあるべきだし開放感あふれる公共の広場が
欲しい。家の周りの公園はたいてい民家に囲まれていて、日当たりが悪くて狭く、ボールで遊んだり叫んだりするとすぐ怒られたりと、実に不自由で不健康的だ 。また景色は最悪で悪い所だと車道に面している。また、旧水戸藩庭園である後楽園などは最悪で、背景が東京ドームや高層ビルであり見るに耐えない。この ように日本の公園事情は冴えない。改善すべき点としてまず一つに景観への配慮。第二に球技や追いかけっこが出来るくらいの十分なスペース。第三に日向 ぼっこが出来るような穏やかなスペース。第四に緑の多い自然観のある場所で、妙な彫刻やら建物を作らない。こう言う公園をいくつか作ってくれれば、けち 臭い小スペースは不動産にしても結構である。みんなが休日になると行きたいと思えるような空間を作って欲しい。  

 
 

 また、日本の江戸時代には実に壮大な美的空間が広がっていたというエピソードを。江戸の町は家康の命によって、彼の故郷である駿府、つまり富士山をどこ
からでも仰げるようになっていたそうだ。だからその方角に邪魔になる建造物がないようになっていた。また、当時の価値観から、空間を贅沢に使う平屋建て こそ富裕の証としてみんな平屋建てを好んだ。これはマルコポーロが『東方見聞録』にて「ジパングの民家は朝日が昇ると屋根が黄金色に輝く」と記している ことからもわかるように、町全体の屋根という屋根が皆同じ高さであったため日がさすと見事に照り輝いていたということだろう。(当時はかわら屋根が出始 めていたのだが、もし全部かわらであったならどんなにか素晴らしい景色だったことか) また、いつも想像するだけでも感動するのだが、この町を天守閣から 見たときどうなることやら。このように、権力者の一存やら庶民の価値観も相まってかもしれないが、日本人もダイナミックで美的センスあふれる景観を作る のに長けていたことがわかるし、町は公共ものだから、当然美しい公園も作れたのではないか。公園に限らず、景観を大事にするにはやはり町ぐるみ、国単位で のある程度計画的な設計が必要だ。  

 
 

 このように公園というものについてよく考えてみるべきだと思う。ここはひとつ「公園の広さが心の大きさ」だと思って、壮大なスケールの公園を作ってみ
てはどうだろうか。                                              
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