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コミュニケーション アジサイ の広場
太公望 うの 高2

 「文字離れ」「活字離れ」は、いまや決定的と言ってよいだろう。小学校の低学年では読書は習慣化しているが、高学年になると活字離れが進行し、中学
生や高校生になると六割から七割の生徒が月に一冊も本を読んでいない。読むことと書くこと(リテラシー)は自己を構成し世界を構成する基本的な作業だ が、その文化は急速に衰退しつつある。喪失しているのは、「私はこう思う(I think)」という一人称の語りであり、「あいつがこう言っている( He said.She said)」というゴシップが、彼らの日常世界を構成しているのである。  

 人間は言葉を使わなければ人間とは言えないと思う。最近の世の中は、学生が突然切れて凶悪事件が起きている。私は、この原因は意志の疎通がうまくで
きていないからだと感じる。世の中は、「言って分からないなら力づくでも分からせてやる」と言った状況である。人同士の関係が稀薄になったり言葉をあま り使わなくてもコミュニケーションが成り立つ時代になってきた。このようになってきたことは非常に便利でいいことだと思うし、これからも発達していく べきだと思う。しかしそれに伴って欠点と言うのも出てきた。まえにも述べた読書離れというものがかなり深刻であると思う。読書をしなければ考える力も 生まれないし言葉づかいも覚えない。そうすると相手と会話をしたときにうまく自分の意志をつたえることが出来なくなる。  

 この世は、文章か言葉でしか相手に自分の気持ちをつたえることが出来ない。人間は、自ら意思疎通の手段を減らそうとしている。私の学校では、書く力
、話す力をつけるために作文を積極的に書かせている。生徒間でも意志の疎通が出来ていない人が多く殴り合いの喧嘩になり双方とも退学という情けない結 果となった。先生は、「自分の気持ちぐらいうまく伝えろ」と怒っていた。これらを改善するには、もっと人と接したり本を読んだりしていくのが一番の策か もしれない。しかし、このようなITといわれる社会ではもはや無理かもしれない。その代わり技術の進歩が著しく進めばアイテの心が分かる機械が発明さ れるかもしれない。  

 私は、生きてきた中で本を読んだり作文を書いたりしてきたため考える力がつき話術がたくみになったというよりへ理屈になった。自分の気持ちが相手に
うまく伝えられることが出来ればイライラすることも無いし凶悪事件に発達することも無い。いくら自分の気持ちが伝えられなくなっても社会から孤立する だけであって他人が預かり知る所ではない。コミュニケーションが無ければ生きていくことが出来ないのだから今の問題に対して社会でも論議されるであろ う。  

 
                                                 
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