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言葉より気持ち アジサイ の広場
ノッポ いえは 高3 今日は言葉というものの力を、一般的に過信し、あまりに幅をきかしている。言葉を持ってする表現技能の進歩と反比例に、しぐさなどの言語以外の表現方 法が退却してきている。ここまで言語は、発達してしまった理由としてお互いの信頼関係が失われていったことにあるのではないか。  

 まずその一つの理由として、現代人の行動範囲がかなり広くなったためである。江戸時代のことには、自分の村から出ることもほとんどなかった。村から
出ては罪になる時代もあった。一生を同じ場所で同じ人たちと過ごすことで、周りの人たちと信頼関係が生まれるようになり、言葉の必要性というものは薄 かったように思う。それが鎖国を解いたと同時に、交通機関も発達し異なった環境の人々とふれあうことも多くなった。そのため言葉や価値観の違う人々と の間に信頼関係を生むことは難しくなっていったのではないだろうか。だから、心の信頼がはっきりと得られないため、その代用品として言ったことや記録 が大事にされてきたのだろう。  

 第二の理由として、全てのサイクルが早くまわっているということだ。私がタイに訪れたときに一番痛感したことは、「言葉(現地語)ができたら、もっ
と楽しかったのに。」という気持ちだった。話せたならば、現地の人ともっと交流できてタイのことを詳しく知れたと思う。もし言葉ができなくても、同じ 人たちと一年間いっしょに暮らしていたならば、お互いの気持ちも表情や信頼で補うことができたかもしれないが、私の二週間という滞在期間は、あまりに 短かった。今の私たちには、じっくりとお互いを理解し合うという暇はない。短期間で裏切られない手段として言葉という証拠を残すことが一番の方法なの である。  

 私たちは、感情のある弱い生き物だ。裏切られたり人に拒否されることを恐れる人間は、その防御法として言語を発達させてきたのだと思う。しかしそれ
は単に防御法にしか過ぎないのである。私が中学生の頃抱いていた理想人物像は、いつでも冷静沈着で、どんなことが起こっても感情を動かされないような 人であった。しかし、そんな人物は悲しみを味合わないだけでなく、楽しさやうれしさも味わうことができないのである。「寒さを知っている者ほど、太陽 の暖かさを感じる」という言葉の通り、人は感情があるから幸せを求めて生き続けているのだと思う。もう一度、お互いに信頼感も持って接しあえたならば 、言葉が事実以上に真実に見えている今の世の中は、変わっていくであろう。  

 
 

 
 

 
 

 
 

 
                                         
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