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正気と狂気 |
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潤之介 |
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かな |
中2 |
我々の心や体のなかにある様々な傾向のものが、常にうようよ動いていて、我々が何か行動する場合には、一定の方向を向く。そのまま進み続けると、人 |
間は興奮してゆき、ある歪み方を示すようになる。その時「狂気」が現れてくるのだ。だが、興奮から平静に戻り、「狂気」が弱まるにつれて、一定の方向 |
を向いていたものは、ばらばらになり、またもとのような、うようよした傾向を持つものの集合体に戻る。そして、人間は、この状態を一応好ましいものと |
しているのだが、この好ましいものが少し続くと、これにあきて憂鬱になったり倦怠を催したりする。そして、再び次の「狂気」を求めるようになるものら |
しい。この勝手な営みが、恐らく人間の生活の実態かもしれない。 |
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食事などで夕飯に出た料理が、次の日の朝にも出てくるということがあると思う。そういう時、「またかよ」と思う時があるだろう。これが正気の状態で |
ある。たまには一風変わった料理が出てくると、おお、と思う。これが狂気の状態である。私は正気の状態よりか狂気の状態の方が良いと思う。その理由は |
二つある。一つは正気の状態のままでいると、すぐあきてしまうからだ。これは上に書いてある料理のほかに、運動などについても言えることである。例え |
ば練習などで失敗をしたとしよう。そのときは、「今度から気をつけよう」と反省するだけですむが、試合で全力でがんばっている最中に失敗したら「今度 |
」ではすまないのである。「しまった」と思って、その失敗をまた全力で償おうとする。こういうのも狂気に近いところがある。 |
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第二の理由に、狂気が偉大な発明を生むからである。一般に狂気は悪いものだと思われているかもしれないが、使い方さえ考えれば、正気なんかよりずっ |
といいのである。正気は何でも物事を冷静にとらえたがるが、狂気はあるものに熱中する気持ちである。このあることに熱中する気持ちが(言い換えれば異常 |
な集中力が)、エジソンのような偉大な発明家を生んだのである。偉大な発明は狂気なくしてはありえないのだ。 |
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確かに、正気で平和な毎日もいいかもしれないが、「知識がはしごを作ったのではなく、二階に上がりたいという熱意がはしごを作ったのだ」という名言 |
のあるように、冷静で知的な判断が何かをつくることよりも、異常な集中力が何かをつくることの方が多いのである。だが、行きすぎた狂気というのは、犯 |
罪にもなり兼ねない。それをうまく判断していくのが難しいところである。 |
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