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狂気で刺激をえる |
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たば星人 |
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あころ |
中2 |
人間とは、「狂気」なしにはいられるものであるらしい。人間は、平和とか安静とか正気とかを好ましいものとしているのにこの好ましいものが少し長く |
続くとこれに飽きて憂鬱になったり倦怠を催したりする。そして再び次の「狂気」を求めるようになるらしい。この勝手な営みが、おそらく人間の生活の実 |
態かもしれない。我々が正気だとうぬぼれている生活でも、よく考えてみれば大小の「狂気」の起伏の連続であり、「狂気」なくしては生活は展開しない事 |
もあるというのは奇妙なものだ。要は、容易に陥りやすい「狂気」をさけなければならないし、他人を「狂気」に導くようなこともさけなければならないと |
いうこと、つまり冷静と反省が行動の準則にならなければならないということだ。こう、作者は言っている。 |
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僕は、この意見に対してこう思った。 |
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「冷静と反省は良いことだけど、それで狂気をすべてなくしても良いんだろうか。」 |
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そして結果として狂気はたまには生活の中に入れなければならないと思った。 |
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その理由は第一に、僕たちの生活の中に「狂気」がなじんでいるからだ。僕は時々理由もなく昔やったテレビゲームをやりたくなってしまうことがある。 |
それは、多分いつも同じゲームだけだとつまらないから刺激を受けたくてすることだと思うが、それも一種の「狂気」だと思う。こう考えると、毎日同じも |
のを食べていると飽きてくるのも狂気を求める行動だし、いろいろなところに狂気が転がっていて、「狂気」を起こさないように気をつけようなんて考えて |
いたら日が暮れてしまうと思う。 |
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その理由は第二に、「狂気」をずっと押さえていても日常生活は楽しくならないと思う。毎日同じ道で学校に通うよりたまには違う道を通って通った方が |
新しい発見があって楽しいと思う。これはあくまで例だが、日常生活から「狂気」をなくすということは日常生活の中の刺激をなくすのに等しい行為だと思 |
う。そんなことをして果たして生きていて楽しいと思えるのだろうか。僕はあまり楽しくないと思う。 |
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確かに、この作者が言うように冷静に地道にやらなければならない事もあるだろう。しかしそれを日常生活にまで発展させなくても良いと思う。「悪いこ |
とそのものがあるのではない、時と場合によって悪いことがあるのである。」という言葉に表れているとおり日常生活以外の特別なときに「狂気」を求めて |
はいけないと思うが、何もない日常のなかでの「狂気」は問題ないと思う。 |
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