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清書:余談や脱線大切に アジサイ の広場
たば星人 あころ 中2

 僕は、おじさん臭いといわれるかもしれないが、新聞を読むのが好きだ。ぼくが好きな欄は、〇〇コラムという題名が着いていたり、テレビ欄の前のペー
ジぐらいに書いてあるあまり重要でないところだ。そういうところにおもしろい記事が、かいてあるものなのだ。推理小説で、何気ない脱線が事件の鍵にな ることがあるように、意味のない部分が大切だと思う。その理由は第一に、授業中でも先生がする余談の方が頭に入っていることが多いからだ。例えば、美 術の時間のことだ。美術の先生は普通の授業でも、        「このクラスは、よく聞いているから脱線しやすいんだなー。」          

 といいながらよく脱線する先生だ。そしてその先生は、生徒が授業でならってている絵を書いたりしている(作業をしている)と、美術室にある本を読ん
で解説をしてくれる先生だ。この先生に、この前の時間に教えてもらった(?)ことを僕はまだ覚えている。それは、地獄の六道の話しだった。先生の本に よると、人間は死ぬと地獄に行ってえんま大王の裁きをうけなければならないということだ。その人の罪の重い順から、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・ 人間道・天上道で、刑罰は、四番目の修羅道が一番きついそうで、それはそこに入った人間が自分は悪くないと思いこんでいるいるからだそうだ。とまあ、 このような話しが、ずっと続くのだが、なぜかこの話は印象深く覚えていた。このように、余談のような何の情報があるかわからないようなところに情報が あった方が印象が強いと思う。  

 第二の理由は、今「パラサイト イブ」という本を読んでいるのだが、その本を読んでいても、ミトコンドリアのことだとか、細胞のことが出てきたとき
、自然とそれを知識として蓄えているからだ。まあ、その説明は長くなるのでしないでおくが、結構頭に入ってくるものなのだ。  

 確かに、それらしい時や場所にそれがあったほうがわかりやすくて良いという人の言うこともわからなくはない。しかし「雑草はまだその美点が発見され
ていない植物のことである」という言葉があるように、そこに何があるかわからないから惹かれるということもあると思う。だから僕は、余談や、脱線は必 要だと思う。でもそれも程々にしないと美術の時間のように話がすすまないいのでその辺は注意したい。                                                         
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