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Bad Communication な現代 アジサイ の広場
UZI.SMG そお 高2

 最近コミュニケーションがあらゆる分野で問題になっている。ITの発達は世界を狭くし、人との関係も濃密になってきている。しかし、技術的にみてコ
ミュニケーションの媒体が進歩したといってもその本来の意味からすると現在コミュニケーションは崩壊しているのではないだろうか。  

 
 

 いまやコミュニケーションの代名詞、携帯電話は一人に一台のペースで普及している。しかしそれを使って何をしているのかといえば無意味なメールやワ
ンギリが多く、またせいぜい連絡用である。ケータイで話し合いや議論をする人はいないだろう。この現状を見る限りケータイ利用者の多くは対話ではなく 放言するために利用しているといえる。なぜなら、特にワンギリはそうだが、一方的に言葉を送るだけで対話をしていないからだ。また、最近の会話では三 人称が主語である会話が増えているという。しかも自分の意見をいうときは私的にはという修飾語がつく。私見を述べることを気にするのは面倒を起こさな いための配慮か。とにかく、自分の意見を述べない時点で対話にはならないだろう。つまりコミュニケーションは途絶えているといえる。つまり結局は他人 と対話をするためには直接会って互いの顔を見合って意見をぶつけ合うしかないのだ。このぶつかり合いをすることによって互いを知り合うことになり、人 間関係を作っていくことになるのではないか。そしてそうした一連の関わり合いが経験となるのだ。  

 
 

 また最近、疲労や痛み、困難を嫌がり拒絶する人が増えているという。疲れるから運動したくない、怪我するのがいやだから釘も打たない道具を使わない
、面倒だから出かけたくない、というような具合だ。これは金さえあれば、製品が手に入る、レジャーが楽しめるというような面倒くささを排除したサービ スを受けられるからであろうか。しかしその本質的な理由は、「困難がありそして幸福がある」というものごとの両義性に気付かないからだろう。例えば工 作などは制作課程は苦痛と面倒以外の何事でもないが、ものが出来上がってくる喜びを同時に味わえる。ただ、完成してしまうと困難が一切なくなるのと同 時に喜びもなくなってしまうので、再び別のものを作ろうという意欲にかられる。スポーツもまたしかり。「祝福が欲しいのなら 底なしのペイン 迎えて あげましょう」という一節がB’zの『ultra soul』にあるが、まさに今言いたいのはこれが理解できるかということだ。この一節があるおかげで僕の中でこの曲のレベルが一挙に高まったのだが、皆さ んはどうだろうか。この両義性を理解することが他者とのコミュニケーションを可能にさせる一因であることは言うまでもない。  

 
 

 このように書いてきたが、人間というのは人との間に存在することで初めて人間であるのだから、人間にとってコミュニケーションは不可欠な要素だ。そ
して大切なのはやはり自らを省みるという反省である。自分を過信して一方的に相手に自我を押し付けている限りコミュニケーションは成り立たない。そし てそのような態度で臨めば他者から見放され無視され、つまり注意すらされなくなるから、やはり自己反省は必要だ。コミュニケーションの大切さを携帯電 話という道具によって思い知らされるのも良い反省の機会ではないだろうか。  

 
                                           
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