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UZI.SMG |
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そお |
高2 |
教育は国力の基礎である。どんな国家でも近代化に際してまず行うのは能吏の養成と優れた技術者の育成である。そのための機関こそ教育機関、すなわち |
学校である。人材がなければ何も始まらないのはどんな分野でも同じだが、国家に関してはその国の前途に関わるので非常に重要である。また、教育とはそ |
の目的からして世界情勢に伴って常に必要なことを教えていかなくてはならない。しかし、現在の日本の教育機関のありようをみるとどうもそのようには機 |
能していないようだ。優秀な人材ほどアメリカなど海外へ流出し、そして学級崩壊の頻発は問題視されてから久しい。そしてそれに対する政府の対応は「ゆ |
とりある環境作り」一点張り、というこの現状を見れば納得いただけよう。それでは今の日本の教育に足りないものはなんであるか。 |
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まず第一に日本の教育に議論が皆無であることは問題だろう。海外では、特にアメリカなどは、ディスカッションやディベートというのは幼少のころから |
やらせるという。こうすることで自分の意見や主張をはっきり相手に伝え、また相手の意見を聞き入れるということを学ぶことが出来る。よく国際会議やら |
首脳会談などでいわれるように「日本人は何を考えているのかわからない」「日本人は曖昧で不透明な主張しかしない」のは多くの日本人が日ごろからこう |
いう訓練を行っていないことと無縁ではなかろう。それにこういった交渉手腕はこれからますます問われるであろうから、議論交渉の訓練を教育の一環とし |
て取り入れることは不可欠だ。わかってくれるだろうという甘い思い込みが命取りになるというのは、日本人の海外での盗難や詐欺被害などでもわかる。ま |
た、意見交換によって他人の考えを知り、そのことが他人への思いやりにつながるかもしれない。少年犯罪の軽減にもつながる可能性もある。 |
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つぎに教育課程の選択幅を広げることを提言する。いまのシステムでは小中高校は皆、大学受験への準備期間にしか過ぎず、しかも大学で何を学ぶのかと |
いうビジョンを持たない学生も多い。また、受験に向けての勉強にウェートがあり過ぎて学問の探求をやりにくいということもよく言われてきた。こういっ |
た不満や学級崩壊という現実を見る限り、現在のシステムを残しつつ、他の選択肢、つまり自由度のある幅広いコース選択を採用していくべきだ。今のシス |
テムがよいならそれでやっていけばいいし、特に履行したい科目がある人はそれに重点をおいたコースを自分で組み立てる。また、飛び級などもその選択に |
はいるだろう。これによってレベルにあった学習が出来るだろうし、どうしても学ばせなくてはならない科目は必修にすることで履行させられる。要は柔軟 |
性のあるカリキュラムを組むということだ。そうすることで学問への探究心のある学生が自由に勉強できる環境が整い、人材の流出を抑えることが出来るだ |
ろう。 |
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この二点をここでは提言する。とはいえ、前者においてはアメリカに先例があるもののそこで学級崩壊やら少年犯罪がないかといえばそうではなく、むし |
ろ日本の何倍もひどい現状がある。しかし、ここで重要なのは日本の未来のためにはそういった教育が必要であるということへの自覚であり、そしてその実 |
行力が問われる。また後者に関しても必ずしも皆が皆勉強熱心になるわけではないし、優秀な人材が集まるとも限らない。しかし本当の意味での学問の自由 |
を実現する、もしくはそれについて熱心に考えるということは、その国の文化のステータスシンボルにもなるだろう。そのことは非常に魅力的である。また |
、今のシステムで自由に学問を修められないというわけでもない。やる人はやるし、やらない人はやらない、というのは本人の意志の強さによるものであり |
仕組みが変えること自体に本質的な革新はないだろう。また、学校という社会体制の圧力に屈さない、いわゆる個性的な人間はそもそもシステムとは無縁だ |
。しかし、少なくとも幅広い選択肢によって幅広い人材が育成されることは確かだろうし、色々な学問に接するチャンスが多いのはいいことだと思う。この |
ように国家の基礎となる教育についてシステム的にも科目的にも常に見直していくことは生き残りに関わる重要なことだ。また、教育が社会体制の鏡である |
ことを踏まえれば教育について考えることは社会について考えることにもなり、やはり反省は必要なのである。 |
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