先頭ページ 前ページ 次ページ 最終ページ
合理的な機械 非合理的な人間 アジサイ の広場
拓馬 ねき 高1

 「すまんが、その白菜をくれんかな、もし。」
 

 「あいよ、20銭な。」
 

 「何?もう少し負けてはくれんかな、もし。」
 

 「じゃ、19銭5厘な。」
 

 「…ほとんどかわっとらんぞ、もし。」
 

 こんな中途半端な四国なまりが使われていたかどうかは謎だが、とにかく昔は、道が今の様に行き来するだけのものではなく、立ち話、物の売買、果ては
喧嘩の為の公共スペースであったから、路上販売が主流だった。自分が作るものを売り、その金で他のものを買い、そしてかえる。しかし、それは大きなリ スクがあって、詐欺まがいのことをされても、苦情を持ち込む先が無いのだ。故に、合理性を求めて来た結果である所の今日は、企業団体が形成され、売り 手は自然に「機械」に、人であっても「機械的」になっていった。しかしどうやら、そればかりが良いこととは言えないようだ。  

 これから書く話は、誰もがあっただろう苦い経験を、私なりに少しアレンジして、コメディ風にしたフィクションである。
 

 男A「あ~のどかわいた…おっ、ちょうど良いところに自販機が!やっぱ、日頃の行いが良いからな~。さてと、紙幣はここだなっと…あれ、なんで戻って
来るんだ?ああ、今は使えないのか。じゃ、これを…って、新五百円玉は使えんだと~!?じゃあ、何の為に発行したんだよぉぉぉぉぉぉ!!…ハァハァ、 つい大声を出しちまったぜ。なに、小銭を出せばすむことよ。よっと。(チャリン)えっと、ひいふうみい…ん?113円…?えっと、ジュースが120円だから… …(……)  

 男A「なぁ自販機よぉ、おめー俺が誰だか知ってるか?」
 

 自販機「……」
 

 男A「俺ぁ、ちゃきちゃきの江戸っ子でよお、生まれてこのかた喧嘩じゃ負けたこともねえ…負けんのはいつも相手なんだよ!!わかっか?」 自販機「……
」 男A「だからよお、手前もすべからくまけなきゃあいけねえと思うんだよ。そうだろう!?」  

 自販機「……」 男A「何とかいったらどうでぇ!!(げしっ)痛っっっっっっ、やりやがったな!これでもくらえ!!」 自販機「……」
 

 男A「はぁはぁはぁ、どうでぇ、参ったか!?」 自販機「……(チャリリリリン)」 男A「おっ、これは…(壊れて金が落ちてきたがった…)」
 

 男A「…や、やっとわかったか。よしよし、奮発してペットボトルを買ってやるぞ。」 近所の受験生「あ、お巡りさん、あの人です!さっきから自販機にぶ
つぶついって、けったりして…ああ、すでに自販機から金を!」 巡査「よし、現行犯で逮捕だぁぁぁ!」  

 男A「何だ?うお、お、俺は悪くね~~~!畜生、自販機のやろう、札は受け取らんで、サツ(警察の意)よこしやがった~~」 巡査「訳の分からんことを、
さ、いくぞ!さっさと歩かんか!」(やっとend) 彼も、相手が人間なら、或いはこのような非行ははたらかなかっただろうに……。そんな考察は置いとい て、つまり、あまり合理的合理的といっても、やはり消費するのは人間なのにはかわりないのだから、そこには人間の会話があって然るべきだし、それなら その相手も、当然「人間的」な感情がなければ成立し得ないだろう、ということだ。  

 このような、合理的、機械的なものに対して、非合理的、人間的なものというのは、社会の様々な所で見られる。たとえば、eメール(以下メール)。軽く
、人に「明日~~があるから」という連絡や、簡単な会話に関して言えば、かなり速く、そして低コストで送れるので、その点は、かなり重宝する。しかも、 携帯電話の普及によって、どこでもメールをみたり送れたりできるのも便利だ。しかし、本当に心からの思いを伝える時、人は、手紙を書いたり、わざわざ 訪問したりする。それは例えば恋文だったり、謝罪だったり、感謝だったりする。そこには、ただただ合理的に、速く読めれば良いというメールには、明ら かにないものがある。そう、人に「感情」がある限り、身の回りのすべてを機械がやる、人との付き合いは、画面の中だけということに耐えることはできない のだ。 確かに、合理性が無い社会は考えられない。「たぶん」「だいたい」「そのぐらい」の支配する世界など、考えただけでイライラする。しかし、合理性の 塊のような世の中が果たして幸せなのだろうか。両極端な意見だというかもしれないが、少し前までは、その「合理性の塊」をめざしていたのだから、あなが ち極論でもない。もしそうして完全合理社会になったとしたら、なにもかもがぴちっとしすぎていて、心に「柔らかい部分」が無くなってしまう。裁判官は、 法に順ずるだけではない。己の良心も裁きの基準に入れている。そうでなければ、ちょっと工夫した機械で、「コノ場合ハ、懲役3年デス」とでも言わせてい れば良い。しかし、人間を裁くことを、同じ「心」をもった人間なくして、あり得るだろうか。「辞書のような人間になることではなく辞書をうまく使える ような人間になることが勉強の目的である。」という言葉がある。これは、たくさんの場面で、言えることだ。辞書を丸暗記して、それだけを理解するのな ら、むしろ辞書の方が心強い。機械ならなおさらである。記憶に関しては、人間が機械に勝つことはほぼ不可能である。(まれに、天才と呼ばれるものは、

「本を枕にして寝たら覚えた」とかすごいことをのたまうが。)しかし、人間が持っている「心」は、何にも、最新のスーパーコンピュータにも搭載されて
いない。人間はその意味で、非合理性のなかに、生きる証を見出していくべきではなかろうか。私は、機械に「白菜おくれ」と注文するより、「すまんが、そ の白菜をくれんかな、もし。」と売り子のおばちゃんにいって食べていく方が性に合っている。                             
ホームページ